看護実習の想起と、良い死に方

あと数ヶ月ほどでハタチを過ぎようとするが、人生100年といわれるこのご時勢もう既に『諦め』の姿勢に入っている。100年も生きて一体何をしろというのか。

看護学生、というか医療の仕事柄、その辺の大学生に比べると3年間でそれなりにたくさんの高齢者と関わってきたと自負している。私は結構元気なお年寄りを受け持たせていただいたことが多く、元気に退院していく姿を見届けることができているほうだ。それでも、中には意識障害があって一言も口を利けない人、意識があって意欲もあるのに寝たきりの人、日に日に酸素を吸入する量が増えていった人、管から胃に栄養を流し込んでいるだけの人など、さまざまな患者をみてきた。
私はやはり看護する人間として、「ちょっとでもいいから良くなって欲しい」と思っている。これは本当に。少しでも苦痛がとれれば良い。そう思って私は毎日毎日清拭や手浴、足浴などを計画して、看護師にそばで見られながらぎこちない手つきで実施する。「気持ち良いですか~?」なんて、「はいそうです」としか言えないようなずるい言葉を使って。私はこんなずるい呪文を使うたびに情けない気持ちになる。自然に患者の口から、温泉につかったときのような「気持ち良い」という言葉が出ない限り、私は一生清潔ケアの呪いからは抜け出せないと思う。
意識の無い患者に対して行う時、ふと我にかえるときがある。かえってしまう、という表現がきっと正しい。看護の人から、ただの若者に戻ってしまうときがある。
『これ、こんな手浴なんかして気持ちよくなってるの私だけなんじゃないの』
『一日中呼吸してるだけで何考えてるんだろうこの人』
ただただ生かされてるだけのような人もいる。だけどそれは私がそう感じているだけの話であって、本人がどう思ってるかは誰もわかりはしないからもちろん事実ではない。だけど、好きであんな状態になって生きている物好きがそうそういるとは思えない。

喋れない、動けない患者さんの病室に頻繁に訪れてみる。というのも、ナースステーションにいると看護師から非常に冷酷な視線を浴びることになるからだ。わたしは居心地が悪くなると逃げるように病室へ行くという術を1年生のうちに覚えた。
『××さん、今日は良いお天気ですね~、ちょっとカーテン開けてみましょうか~』
『あとで足湯やりましょうか~、あったかくて温泉に来た気分になりますよ~』
『お身体拭いてさっぱりしましたね~、明日は久しぶりに頭洗いましょうか~』
もちろん、返事はない。しかし聴覚だけは死ぬ直前まで残っているといわれているので、私はそれを信じて毎日毎日、毎分毎分話しかけた。観もしないテレビの話や、興味ない天気の話、知りもしないニュースの話。そして、早く良くなってほしいという私の気持ち。覚えてないけどとにかくいろいろ話した。しかし冷静なアセスメントができてしまう看護学生の私の頭の中では、たぶんこの人週明けには亡くなってるだろうな、と悲しいくらい冷静な予測がされていた。

週明け、その患者さんのベッドには誰もいなかった。
あー、やっぱり。
その日は夜勤から日勤の申し送りが全く頭に入らなかった。妙に冷静に、表情1つ変えずに、誰も聞いていない毎朝恒例の看護学生軍隊式挨拶を手っ取り早く済ませる。
そして悲しんでる暇などお前にはないぞといわんばかりの早さで、次の患者の情報を提供される。
あの人、生きてて幸せって思えたかな。水もっと飲ませたかったな。
あんな状態にまでなって生きたかったのかな。もうほとんど私の憶測でアセスメントもクソもあったもんじゃないが、タラレバが次々と脳裏を霞めては消える。

看護実習をやっていると、未来の私を見ているようでつらくなる。あー、長生きするとこうなって死んでいくんだ。『理想の看護師』を演じながら『管入れられるなら死んだほうがマシだな』と思いながら看護していると、死生観がよくわからなくなる。基本的に長生きはしたくない。呼吸器・胃瘻・点滴フル装備で100歳まで生かされても、サイボーグというか研究のサンプルとしか思えない。
好きなだけ酒飲んで良い頃合いで良い感じに死んでおしまい。健康に気を使っていても、望まない姿で入院させられてきて、ポツリと愚痴をこぼす患者を何人もみてきた。老人が悲しい顔をしていると妙にこっちまで切なくなる。だから、健康に気を使ったって、病気になる時はなるのだ。しかたない。人間の心と体って思ってるほどうまくできてないんだということを知りすぎてしまった。

ていうか人生長すぎ。正直2年くらいでいい。無理。

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