「偉い人を、殴ります」ートム・ブラウン最強の掴みについてー

 トム・ブラウンというコンビ芸人を知っているだろうか。とある目標物を産み出そうとするも、その目標と無関係なものを混ぜてしまい不自然なものが作られてしまう、という漫才が有名な芸人である。
 おそらく、彼らの漫才においてネット上で有名なのはその衝撃的な掴みであろう。例えば
「ケンタッキーは、骨ごと飲み込みます」
「ジャック・ライアンのDVDを、食べます」
「偉い人を、殴ります」
などである。その文章としての奇怪さが笑いを誘うのだろうが、数多の掴みの中でも特に「偉い人を、殴ります」は、どんな芸人の他様々な掴みよりもはるかに上回って輝いて見える。


 これについて論ずる前に、トム・ブラウンの掴みを分類する必要がある。
 トム・ブラウンの掴みは分類として3つに分けられる。

(1)メタ視点型
 メタ視点型は観客へ語り掛ける型である。例えば
「みなさん、家の鍵、閉めてきました?」
「誰か一緒に、無人島行こ?」
「みなさんと私は、今日からお友達ですよ」
などが挙げられる。これらは観客と演者という絶対的な対立関係を飛び越えることで笑いを生むとともにこれからの漫才の世界へ没入させる。メタ的な行為でありそれによる笑いである。

(2)文章破壊型
 文章破壊型は、人間の文脈推測能力とズレた発言による笑いの型である。例えば
「ジャック・ライアンのDVDを、食べます」
「ゴリラと、住みます」
「とんこつスープで、お尻を洗います」
等が挙げられるだろう。
 これらは前半の文脈に出てきた語の意味範疇に存在しない語を後半部で提示する。そうして聴き手(観客)の文脈想定を破壊することによって笑いを産み出している。
 たとえば、「文は」という言葉を聞いた時我々は「難しい」「書く」「読む」など、様々な連想をしてその後に続き得る単語なり文章を推測する。しかし「おいしい」「暑い」などが現れるとは考えない。詳しい理由は諸賢に譲るが、何故なら通常「文」はそのような意味と関わらないからである。
 そのためもし「ひらがなの文は、おいしいです」などと言われると驚き(トム・ブラウンの場合更にそこから笑い)が生じるわけである。
 このスタイルは(1)(3)にもその要素が見え、トム・ブラウン笑いの基盤であると言える。

(3)秩序破壊型
 秩序破壊型は文章としては、文脈破壊型よりは成立しているが社会的には成立し得ない、またはすべきでない内容を提示し笑いを生む型である。例えば
「かまいたちの濱家を、殺します」
「夢屋まさるは、殺します」
「偉い人を、殴ります」
などが挙げられる。
 これらは先ほどの文章破壊型の類型に見えるが、文章理解の段階で笑いを生む文章破壊型よりも一歩進んで社会的な文脈(非文章的な領域)で生まれる笑いであるため別の分類と考えられる。

 さて皆さん、よくこんな文章をここまで読んでいるものである。普通、トム・ブラウンの笑いの分析論文なんぞに時間を浪費したくはなかろう。まぁ、ここまでついてきて頂いたのなら、未熟ながら最後まで突っ走らせていただく。

 以上のようにトム・ブラウンの掴みを分類したが、ではタイトルを回収して「偉い人を、殴ります」を深掘りしていく。
 「偉い人を、殴ります」は(3)型である。では私がなぜこの掴みこそが最強である、とするか。同じく(3)型の「夢屋まさるは、殺します」との比較と「偉い人を、殴ります」というテキストそのものへの分析から見ていく。

 同じく(3)型の「夢屋まさるは、殺します」との比較をしよう。
 この2つの違いは「偉い人/夢屋まさる」と「殴る/殺す」の2点である。「偉い人/夢屋まさる」から見ていこう。
 「夢屋まさる」は個人名である。一方「偉い人」は一般名詞に形容詞が付いたものである。
 聴衆は個人名を聞いたなら特定の人物が浮かびあがる。その人物が分からずとも少なくとも特定の一個人を指名していることは分かる。だが、「偉い人」はどうであろうか。その言葉は誰でもない、「偉い」という性質を持つ「人」が想定される。つまり、説明されながらも情報はほぼ増えず、更なる説明への欲求だけが湧き上がってくるのである。
 次に「殴る/殺す」の差を考える。この差は「手段か結果か」にある。
 「殴る」とは人が他人を傷つけるという「結果」を果たすための「手段」のひとつである。一方で「殺す」は人が何らかの「手段」で他人の命を奪うという「結果」を行うことである。
 では、これらパーツを組み合わせた「夢屋まさるは、殺します」と「偉い人を、殴ります」はそれぞれどのような意味の文であるかをまとめよう。
 「夢屋まさるは、殺します」は「夢屋まさるという人物を何らかの方法で絶命という結末を迎えさせる」とまとめられよう。振り返れば(3)型であることから笑いは生まれている。
 一方で「偉い人を、殴ります」は「偉い人なるものに殴るという動作を行う」とまとめられる。(3)型ではある。しかしあまりにも我々の期待と疑問は解消されない。「偉い人というものについて更なる情報は?」「殴ることによって何を求めているのか?」我々は「情報の不十分」という驚き(笑い)を得られるのである。

 「偉い人を、殴ります」というテキストへ入っていこう。「偉い人」というのは「なんらかの秩序社会において地位・身分が高い人物」であろう。そのような人物を「殴る」と言っている。一般常識に照らし合わせればやってはいけないことである。あまつさえ社会的身分の高い人物を、だ。
 前述したように「偉い人」は特定の誰かではない。何者でもないにもかかわらずみちおは「殴る」と言う。我々は「情報の不十分」に笑いを得るとともにどうにか解釈しようとする。自然に解釈すれば「偉い人」を「偉さという概念」へと最小化し、「殴る」を「害する、脅かす」と最小化するだろう。そうして「偉さという概念に対する攻撃」だとする。
 ところで(3)型は秩序破壊型だと命名した。社会的常識・一般規範を脅かすことで行われる笑いである。
 「偉い人を、殴ります」というテキストはこの(3)型の概念そのものに等しいことがここまでの論述から理解されていると嬉しい。「偉い人」=秩序において評価されている存在は害されるのだ。害されることによって「偉い人」は傷つくのか、怒るのか、泣くのか、そのようなことはどうだっていい。ただ、「偉い」という概念を「殴ります」と宣誓する存在が聴衆の前には出現するのだ。
 そのような発言は反社会的存在であり国家・社会にとって糾弾されるべきものだ。しかし一方で、ただ「笑い」というものを求めてやってきた個人の集まりは、常日頃秩序社会からの抑圧に晒され続けていながらそれに反抗することを許されない存在たちは笑い飛ばすのである。
 「できっこない」「口だけだろう」という思いは湧いてくる。しかし「情報の不十分」がある。「偉い人って誰だよ」「殴ってどうするんだ」。分からないことだらけだ。その文章的な隙間には空想の余地がある。
 聴衆の脳裏には一瞬映る。それぞれが想像する思い思いの偉さの象徴、「偉い人」が。それが殴られるのだ。他人が傷つくことへの共感的悲しみは無い。「殴る」だけだからだ。決して傷つけるとは宣言していない。
 この時聴衆たちは何にも縛られない爽快感が通り過ぎるのを感じる。「お笑い」という世界にいる間はただ笑えばいい、社会秩序よりもこの瞬間の面白さに身を委ねればいい、そうステージが始まって最初に明示されるのだ。

 総括をしよう。「偉い人を、殴ります」このテキストはトム・ブラウンという芸人の掴みとして、コントの最初に放たれる。この一言は「情報の不十分」による笑いがある。それと同時に、聴衆の普段所属している秩序世界を笑い飛ばさせ、コントのステージから隔離することに成功する。
 言うまでもなく、掴みとはコントのスタートであり、笑いの世界の開始点である。いかに芸人の作り出す物語世界に持ち込めるか、芸人の力量の出る一瞬である。トム・ブラウンは、この永遠に解決されえないようにも見える芸道の課題に対してひとつの正解を示しているのだ。


「偉い人を、殴ります」
それはトム・ブラウンが産み出した、世界最強の掴みである。

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