神官的なものに対抗する小ささ・無意味、そして開く
神官
神官こそが、閉じることを強制させる。神官とは、一つに固執させる力である。一つの大きな意味だけを正解とする思考だ。一つの大きな努力神話、労働神話、そういうものへの信仰を求める。
全てを判断し・否定し・拒絶できる訳では無い。関係の無さ、無意味、つまり小ささが存在する。そういう小ささを見ていくことが、開くことに重要なのだと思う。
非神官的思考に軸足を移していくこと。小ささと無意味の方へ、小さく足を踏み出してあげることが大切だ。泡立つように変わることで、少しだけ不自然さが生まれる。プレート同士が押し合いへし合いして、エネルギーを溜めるみたいに。
大きな無意味へと進んでいく、というのはむしろ「意味を求めてしまっている」態度だ。神官に繋がっている。「大きく無駄なことをやり切ってしまう」という信仰へ、大きな力を加えてしまっている。
小さな無意味を意味もなく受容する方向へ進んでいく。多分、その瞬間こそに爆発的な生の可能性がある。
良い感情が良いものである、それも自分の身体教の神官だ。自分から共同体へ。繋がっているものへの、慈悲的ななにかへと移っていく。IからWeへ。
「私だけで」から「私たちで」への転換をする。
どうして、自分だけ損しなければいけないのだろうか。自分だけやって損しなければいけないのか?という不公平感が生まれる事がある。
小さくマゾ的に感謝すること。ほんのちょっとだけしか不快を感じない範囲内で、相手に感謝してみる。
たとえば、人は存在してくれるだけで幸せであることがある。存在自体に感謝する視点が見つかるなら、それが一番楽である。
なるべく楽に、感情的に感謝できるのが楽だ。感謝できないならしない、嘘をつかない。そういう、小さな不快感のみで視点を転換してみる。
私ではなく、私たちで考える。大きな文章の塊にこだわらない。大きな一つから複数の小さな物へ。自分と他者の境界を曖昧にしていく。自分と共同体との間で生成変化していくため、少しずつ小さな身体経験を溜めていく。
頑張って出し抜きたい。本を沢山読んでより良い設計、より保守性の高い設計を考えられるようになりたい。経験が圧倒的に足りない。それは、アウトプットが足りないからではないだろうか。アウトプットによって、経験は引き寄せられる。どのようなものにも成果を見出すことができる。
成果によって、経験はついてくる。息を吐いたら吸うしかない。アウトプットしていたら、次々インプットが増えてしまう。退屈だから、インプットを増やしてしまう。
流れを作り出す。そういうアウトプットの流れは、勝手に開くことへと繋がってしまう。
奇抜なことは一切やらないし、沢山やることもしない。小さなことをする。小さなところから流れは作られる。
氷河期はほんの少し寒い夏から作られるし、雪だるまははじめは雪玉である。
興奮によって行動しない。普段の生活に組み入れて、流れで小さくやる。
同じ直線上にはいない
出し抜きたいと私たちが嘆くとき、ゼロサムゲームで世界を捉えている。相手から奪うという単純な固定化した世界だ。ゼロサムゲームは、今たまたま目に見える切り口に依存していて、変化の視点が足りない。変化に合わせて変化させるための、はじめ正確ではない言葉が足りない。切り分けは変わっていく。
出し抜くというのは、同じ直線上に私たちがいるという言葉を使っている。私たちを一つの直線上に置くことで、正確に数直線や言葉で表せるわけだが、そもそも直線は変化してしまう。
変化する直線→曲線・非線形に追いつく形で変化させる、正確ではない言葉が必要だ。
直線はぬるぬる動いて、間が空いたり閉じたりする。そういう変化の間隙に入り込めるような、小さな動きを意識していけば良い。小ささは動きやすさである。小さな身体的感覚について意識し、小さな日常の変化を観察し、後から言葉を合わせていく。
また、小ささは空間的な小ささもそうであるし、時間的な小ささもそう。そういう細切れのところへ集中し、敢えて遅くやったりする。
遅くやると、情報が沢山増える。ゆっくり歩くと、「こんなところでバランス崩すのか!」「めちゃ退屈や〜」が沢山現れる。
遅さは開き方の練習になる。
やるべきことを無視して夜更かししてしまうことがある。それは脳の加速によって時間的な小ささを取りこぼした結果、無視していた身体感覚が蓄積し、ショートしてしまったことが原因だ。
やるべきと考えて記事の執筆をしてしまう。それは身体の速度が足りないのであり、思考の速度が早すぎる。キューに溜まっている身体感覚を取り戻し、出す事が必要。
質・大きさを求めると思考を助長する。頭空っぽ・小ささが必要になる。
アート/デザインと小ささ
自分の芸術性と大衆へ迎合することの間には、大きな葛藤がある。
私が身近に感じられるところで、お笑い芸人もそう考えていると思う。きっと、彼らも「自分の面白さ」と「大衆の面白さ」の間で葛藤しているはず。
なぜ大衆へ迎合したものについて、つまらないと感じるのか。違いは個と多ではないだろうか?大衆は具体的ではない。どこに刺さったのか、具体的な性質が存在しなくなっていく。どんどん刃が丸く欠けていく。
大衆に合わせるというのは、すでに正解があるという誤った前提に基づいている。正解に沿って何かをすることで、見たこと無さから遠ざかっていく。すでにあるという前提に立つと、エネルギーを使わないし、大きな変化が起こらないのではないか。だから、きっと常に個に向けてエネルギーを使うほうが良いんじゃないか。
生成AIの出現も大きなファクターとなった。大衆へ向けたビッグデータ的解決、最大公約数へのデザインみたいなことは、生成AIにまかせてしまって良いと、一旦しておこうと思う。
だから、私はひたすら自分という個にこだわるし、誰か一人にこだわることにする。小さく狭くしていく。
個と個、その関係性に狭める。大衆一般から個へ、小さくしていくことを意識するのだ。
開くこと
場を広げると、どうしてもつまらないに付き合うことになる。その結果時間や空間、何か存在するような「もの」が無駄になってしまうと感じるのは怖い。
無駄にする、というのは一つの変化である。ある変化の結果/効果が一旦「無駄」に思えているだけだ。無駄という感情効果が発生しただけだ。
結局のところ、人生に目的や意図もないのだった。
「人生に目的も意図もない」
ツルツルとしていて、ぽんっと発せる言葉だけれど、どこまでも深さと苦しさを抱えられる言葉でもあると思う。意図や目的を求める努力を諦めた人がカッコつけてニヒリズム的に使うことができるけれど、意味することは切実だ。
生は、とことん無意味に暴力的で、苦しく何もない。朝のだるさ苦しさに根本的な意味はないのだ。そこに、いかにマゾヒズム的に意味を見出していくかが、多分大切だと思う。つまり、受容すること。
ありあわせの意味を見出すこと。なけなしの・その場しのぎの小さな意味を見出す。
こういうところでも、小ささは役に立つ。
苦しみ=他者への意味を、小さくだけ求める。そして自分が答える。自分が創造する。行動によって、意味を作り出してしまう。意味は、いつも後から解釈される。最初に無意味がある。正確ではない言葉を使って、マゾ的に苦しみに意味をこじつけて・こじつけもせずに小さく動き、変化のうちに言葉の車輪をともに回し、言葉の粘土を練り、少しずつ意味へと進んでいく。
小さく創造する。
自分が嫌われても、それは他の誰かに好かれるということの裏返しである。というマゾ的な小さなこじつけ、そして受容する。
小さく遅く動き、小ささのうちに観察し、無意味に対して小さく意味づけする。
そもそも意味ははじめにはなく、後から形作るものだ。組み合わせの爆発の膨大な意味には、小さな身体的経験で意味を狭める。
全く無意味に思える存在の暴力には、小さな身体的苦痛だけをまず観察して、受容する。
目の前の一つの呼吸に立ち返り、心臓の暴力とともに生きる。
強欲が轍として私の脳みそに刻み込まれている。それでよい。興が乗ることがある。それを受け入れられない無意味で小さなしこりさえ受け入れる。
心臓のもの、機械のもの、受け入れるのだ。目の前の小さな一呼吸だけ。自分が小さな存在で、ほんの少ししか、世界に意味を与えられないのだ。
私の器は相当小さい。人並みに小さい。凡人である。
何をしようか。
仕事にどうやってオープンさを持ち込んでいくか?一つ簡単な方法があるかもしれない。
「私がこれをしたら、私たちにどのような利益があるのか?」
ちょっとだけ問うてみる。
行動基準に、ほんの少しだけ私たちを埋め込んでみる。
何も変わらないかもしれない。それぐらいでいい。ちょっと居心地の悪さに進むこと。意味もなく辛くなってみる。
まだ私には、仕事についての異物がある。それは、長男ー不公平の物語。そこで、兄妹という共同体に進んでちょっと苦しんでみる。私たち兄妹がもっと幸せになるにはどうすればいいかな?そういう考え方を滑り込ませていく。
義務感・成果・苦しみ・嫌われること、そういう腐敗的な生の衝撃波を受け入れること。それが人生である。無意味さにほんの少し、無意味に開いて、その力でむしろ脱力すること。力を使った後の脱力、疲労。救いとしての疲労を創造してみる。
苦しみも喜びも、平等にランダムに降り注いでくる。
閉じて干からびた私に、生の濁流でひたひたにする。夜更かしも、きっと私に必要なものだった、と思う。むしろ、夜更かしも健康も私にとって全く無意味である、と言ってもいいけれど。
オープンさは異物である。苦しみ・悲しみ・後悔に開く。静かな避暑地を作っておいた。
やっぱり呼吸をする。心臓の暴力的な血液に、空気を送り込むためにできることをする。
生を謳歌する。人生の沢山の瞬間を受け入れるのだ。汚いものがたくさんある、この世界を。
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