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珍しく徳を積んだ話

この春から始めた仕事は、ほぼ在宅勤務でありがたい。
たまに出社する時は当然電車に乗るのだが、先日は五十肩で着替えができずお昼ごろの出社になったため、電車内はとても空いていた。
そこに、観光客らしき外国人の家族連れが乗ってきた。
両親と幼い子供2人。お父さんは大きなスーツケースを引いていて、子供たちは可愛らしかった。
座席の空きかたの都合で、若いお母さんと子供たちは向かいに、お父さんは私の隣に座っている。
お父さんはしきりにスマホと電車の案内表示を見比べていた。

最初に言っておくが、私は全く・完全に・100%英語が分からない。
分かるのは「X」と「JAPAN」だけ。と自己紹介するくらいには苦手分野である。

つまり、外国人だからと差別する気もないし、隣に座っていただいても一向にかまわないのだが、話しかけられるのだけは困るのである。
だいたい、ここは日本なのだから、何か聞きたいことがあるなら日本語で質問してほしいのだが、それを説明する言葉を持っていないため、ただひたすらスマホの画面を凝視していると、である。

勘の良い方もそうでない方もお気づきだろう。
そう。話しかけられたのである。

しかも、イヤホンをしている私にもわかるように、五十肩ではない方の左肩をトントンと叩くではないか。
元来気の弱い(かどうかは、意見が分かれるところだが)私は当然、左のイヤホンを外しお父さんの方を見た。

すると、英語表記の路線図を指して、「○○駅に行きたい」と思われる言葉を発している。もちろん日本語ではない。ただ、助かったのは英語だったことだ。英語ならば「X」と「JAPAN」なら分かるが、ほかの言語だったらそれすら分からないのだから。

しかし、困ったことは続くもので、この答えには「X」も「JAPAN」も必要なく、私の語彙では何一つ伝えられないことが判明したのだ。

さて、ほんとうに困った。

お父さん一行の目的地には、この電車に乗っていれば着くのだが、それをお知らせできないわけである。

そこで、路線図の今いる駅を指さし「ヒアー」などと言ってみる。

通じた。
そしてお父さんもそれは分かっていた。
当たり前である。この駅から乗ってきたのだ。
他社線と相互乗り入れしているため、路線図の色が途中で変わっているので、お父さんは不安になったらしい。ことを言っているような雰囲気だ。
そう、心許ないのはお互い様なのだ。

今いる線を右の人差し指で、乗り入れる線を左の人差し指でそれぞれ示し、人差し指同士をスライドさせるジェスチャーをしながら私の口から出た言葉は「相互乗り入れ」だった。

めっちゃくちゃ日本語である!!

しかし、お父さんは理解したっぽい。
ただ、不安は残っている。何度も「ダイレクト?」と聞くので、私も「イエス。ダイレクト」と、何かのCMのように異国の言葉を口にした。

お互い何となく安心した矢先、向かいに座っていた息子氏が、咳をした勢いで嘔吐(少しだけだが)を始めたではないか。
お母さんは慌て、お姉ちゃんは気付かず、お父さんはオロオロしていた。
お母さんがウェッティを取り出すのと、私がポケットティッシュを差し出したのは、ほぼ同時だった。
お父さんとお母さんは「サンキュウ」と言いながら息子氏の汚れた手を拭く。

しかし、お父さんの心は、この異国の地で家族を路頭に迷わせることなく目的地に到着することにあるようで、しきりにスマホと案内表示を見比べている。その心中を思うとなんだか涙が滲んで…
はこなかったが、何とか安心させてあげたくなった。

そこで私はやっと気がついたのである。

グーグルに翻訳してもらえば良いのだ。と。

無事、「わたしがおりる駅は◆◆駅。あなたは、そのつぎのつぎの駅」と伝えると、お父さんはようやく安心したようだった。

降り際に、もう一度、「ネクスト ネクスト ステーション」と異国の言葉を唱えると、若いお母さんとお父さんは、大きな声で「サンキュウ」と言っていた。
そして息子氏はケロッとしていた。

幼い子の嘔吐は後を引かなくてうらやましい限りだ。
五十路の右肩は痛いままである。



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