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【ミリンダ王の問い】ナーガセーナさん、腑に落ちないぞ!

『尊者ナーガセーナよ。あなたは語る。——
「地獄の火は自然の火よりもはるかに猛熱である。自然の火の中に小石が投げ入れられて、一日焼かれても、溶けることはない。しかるに、高楼ほどの石でも、地獄の火の中に投げ入れられると、刹那のうちに溶けてしまう」と。このことばを、わたしは信じない。また、あなたがたは語る。——「そこに生まれた生けるものどもは、幾千年間も地獄の火に焼かれるけれども、溶けることがない」と。このことばをも、わたしは信じない』

『ミリンダ王の問い1』インドとギリシアの対決 中村元/早島鏡正訳 第1編 第4章 第5


これに対してナーガセーナ尊者は、さまざまな喩えを出して説明する。
その一つが以下である。

『大王よ、あなたはどうお考えになりますか? すべてギリシア人の美女・クシャトリヤの美女・バラモンの美女・資産者の美女は、固い硬(こわ)い肉を食べますか?』
『尊者よ、そうです。かれらは食べます』
『では、それら〈の肉〉は、体腔内の腹の中にはいると、溶けてしまうのでしょうか?』
『尊者よ、そうです。溶けてしまいます』
『しからば、かれらの体腔の内の胎児も、また溶けるでしょうか?』
『尊者よ、そうではありません』
『いかなる理由によってですか?』
『尊者よ、〈宿〉業の制約によって、溶けないのであろう、とわたしは思います』
『大王よ、それと同様に、地獄における生けるものどもは、そこに生まれ、そこにおいて成長し、そこにおいて死ぬのです…(略)』
『もっともです、尊者ナーガセーナよ』

『ミリンダ王の問い1』インドとギリシアの対決 中村元/早島鏡正訳 第1編 第4章 第5


ミリンダ王よ、本当に納得しているのか!?
私は腑に落ちないぞ!

まぁ、地獄という世界が存在するとしてもだな…
食べたものと胎児の場所を「体腔」と一括りにしてしまうのはどうかと思うのだ。

そもそも、釈尊在世時において、すでに人間の解剖学的な知見は存在したのだ。
ギリシャでも同様なのではないだろうか。
(知らんけど)

つまり、食べたもの(肉)は胃に入り、胎児は子宮にいると知っているはずである。
食べたものは胃に入って消化されることを知っているからこそ「溶ける」と表現しているのではないのだろうか。

なぜミリンダ王は、ナーガセーナが肉と胎児を引き合いに出したときにツッコミを入れなかったのだろうか。


もう一つ引っかかることがある。
ナーガセーナいわく、宿業(前世の業)の制約があるから焼けて死ぬことがないという。

ならば、それが現世でも通用するわけだ。
例えば、死ぬべき時ではないときに自分の身体に刃物を刺しても死なないということだ。
しかし、実際はそんなことあるはずがない。

ナーガセーナ当時は、一度下火になったカースト制度が復活し始め、その身分制度のせいで社会的地位が決められてしまいどうにもならん状況を、そう説明して納得させるしかなかったという事情があったようだ。

しかし、苦しい説明である。
釈尊の教えから脱線してしまっているのだから。


まあでも、矛盾があるのが人間なのか。
人間は矛盾の中で生きているからな。

業についてちょっと勉強したくなってきたぞ。
本を探そう。




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