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からあげにレモンを絞るなら―――それぞれの女性らしさ

先日書いたnoteにいくらか反響をいただいた。
女性らしさや女性性について、どうしたものかと一度は見つめたことがある女性が、わたしを含めて少なくないんだなあと思う。

なので、今日は予定を変更して、女性らしさについてもう少し書いてみたい。


前回の記事にこんな一文を書いた。

だからといって、いかにも女性らしく行動すればいいのかといえばそうじゃない。女性という役割に撤するというのも、ちょっと違う。

(2019.3.23 運命が動き出すとき―――女性らしくふるまうことを、自分に許していますか。)


ここで、"いかにも女性らしい行動"と聞いて、何が思い浮かぶかなと思ったとき、いろいろなことが思い浮かんだのだけど、ふと、「からあげにレモンを絞る」ことを思った。

一時期話題になったテーマではないかな。
男女数人で飲んでいる席で、大皿に乗ったからあげにレモンが添えられたとき、気を利かせてレモンを絞りかける。

レモンだけじゃない。サラダやおかずが取り皿と共に配膳されたとき、「あ~取り分けるのか」と、実際自分が取り分けるかどうかは別としても、なんだか役割のようなものを求められているような気がすることは、女性なら一度は感じたことがあると思う。


わたしが表現した
”いかにも女性らしくふるまう”
というのは、その役割を積極的に担おうとしたり、利用しようとしたりする心持でいること。

だからといって、逆にその空気感を嫌悪したり、はたまた、諦めたようにしぶしぶやってしまったりするのも同じことのような気がする。

それは女性らしさを自分に許しているのではなく、"女性らしさに縛られている"んじゃないかな。


じゃあ、どうしたらいいんだ。
と、思うかもしれない。

どうしたらいいんだろう。


わたしの友人に、素敵な女の子がいる。

少し天然で、でも地に足ついていて、みんなに好かれる可愛らしい女性。大学時代から付き合っていた彼と結婚し、今では2児の母だ。

大学生だった頃、そういう場面に合ったときどうするかという話になると、彼女は、「みんながやってくれるのを見ている」と少し申し訳なさそうに、でもあどけなく言っていた。

男女数人集まったとき、お世話好きな女性がきっといる。義務感でもなく、さらっとやってしまう女性に彼女は任せてしまうらしい。

任せてしまうと表現すると、語弊があるかもしれない。
要は、その場に応じて、周りの流れやそれぞれの人の性質を見て、自分がすべきことをし、しないでよいことはしないでいるということだ。

誰かがレモンを絞る役割をさらっと担ってくれたら、きっと彼女はありがとうと素直に伝えているだろうな。そのとき、彼女は自然な形で、親切を”受け取る”という女性らしさを体現しているんだと思う。からあげにレモンを絞る場面一つとっても、いろんな女性らしさがあり得るんじゃないかな。

今回はからあげにレモンを例にしたけれど、女性として、とか、彼女として、妻として、とか。
周りから求められている役割のようなものがあると、わたしたちは刷り込まれているのかもしれない。


女性としてこうならなければならないと思うのはとっても苦しい。
とはいえ、女性だからってこの役割はしたくないと反抗するのもなんだか息が詰まる。


みんな画一的に同じことをする必要はないんだろうな。
彼女のように、ちょっと柔軟にその場に応じて、"自分に無理なく体現できる女性らしさ”というのが、きっと必ずあるんだろうなと思う。


□関連note
運命が動き出すときーーー女性らしくふるまうことを、自分に許していますか。

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