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愛しいとは何か

今日ふと、「人を愛するとは何か」と言う話になった。
細かく言えば「あなたはどういう人と結婚したいのか。」と聞かれたことがきっかけだ。

私の最近の「愛しい」は、昔とすっかり形を変えていて、昔はいかにそれがお互いに同じ気持ちで、永続的で信用できるものであるかという基準の上に審査されていた。
今の私の「愛しい」は、「いかに美しいか」と言うことがベースで成り立っていると気が付かされた。
その美しさは様々で、
その人の語彙力とその選び方であったり
行為後のふとした横顔であったり
その人を思うとふと切ないとも違う奇妙な気持ちになった時であったり
おやすみ、と言われただけのその思いやりであったり。
相手がどう思っているか、それが永続的かは関係なく、自分がどう感じているかのみが大切で、損得やギブアンドテイクのような想いではないのだ。
それはどれも瞬間的で刹那的で、もう一度やってと言っても、同じ瞬間や、同じ気持ちになることは難しく、それを切望したり懐かしんだり、思い出したりして精神的な自慰行為のような気分に浸る。
その瞬間を一言で言うなら、それは紛れもなく「愛しい」である。

その瞬間に対するものなのか、相手に対するものなのか、その自分の感受性に対してなのか、それもわからないむず痒く走り出しそうな想いこそが、私の最近の人を愛する、の定義かもしれない。
もう少し的確に言うなら、「あ、愛してしまってる?!」と言う感覚の方が正しいかもしれない。
このほぼエロスのような感覚は永続的に保証されてしまうと途端に色褪せ形を変える。それはそれで愛しいのは理解できるが、今私が欲しているのはもっと瞬間的で生々しくて直感的で本能的な芸術みたいなものなんだと思う。

変わらないもの、約束されたもの、なんてどこにもなくて、人も時間も気持ちも誰にも束縛できない。だからこそ、美しいのかもしれない。

necoco

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