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優しいということ



この世界には、誰にでも優しい人というのが存在する。
彼らは分け隔てなく優しく、滅多に怒らず、誰かを馬鹿にすることもしなければ、誰にでも救いの手を差し伸べる。

私は、誰にでも優しい人が怖かった。怒りを表に出さないなんて苦しいのに、彼らは出さない。怒りも見せず、そればかりか人に優劣をつけずに優しくするなんて、人間らしくなくて不気味だと思っていた。


人は、怒りを持ってしまう生き物だ。誰かを憎み、蔑み、そうして自分の心を守る。
生きていれば、人は傷つく。傷ついたとき、人は痛みに対抗するために怒りを持つ。
怒らないということは、傷つくことを受け入れるということだ。
多くの人は、傷つくことを受け入れられるほど強くはない。

人は他人に順番をつける生き物だ。
福沢諭吉先生が『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず』と云ったが、後に続く”知によって人は優劣がつく”という言葉の通りに、人は人の上に人を置く。そうやって社会関係を形成していく。

私はずっと、彼らが無理をしているのではないかと思っていた。
人として自然な感情を抑えつけている彼らが、自分を傷つけすぎていつか爆発してしまうのではないかと、気が気ではなかった。

傷ついても人を怒れなかった人は、よく自殺をする。心が耐えられないからだ。誰にでも平等に接している人は、よく精神を病む。いつでも平等に接することなんて、不可能に近いからだ。
優しくいるということは、それだけで自殺への一歩を踏み出しているものだと思っていた。


優しさとは、弱く居られる強さのことだ。
その強さは本当に有難いもので、だからこそ私は、誰にでも優しい人が苦手だった。その優しさで、いつか弱い私を糾弾してしまうかもしれないと感じていた。


私は思う。優しくなくてもいいんじゃないか、と。優しくある強さと引き換えに、大切な何かを失ってしまうような気がするから。
好きな人にだけ優しければいい。誰にでも優しくしたら、特定の人への執着がなくなってしまう気がするから、優しくするのは大切な人だけでいい。そう思う。
人を憎んでも、理解できなくて気味悪がっても、それでいいと思うのだ。

本来人を憎む自由は憲法でも保証されている。人は人を憎まないと、きっとまともに生きていけない。

だけど、人を大きく傷つけることは許されていない。
憎んだからといって、人をボコボコにしてはいけない。


だから、吐き出せばいい。友達に愚痴を言えばいい。ネットで大声で叫べばいい。通りすがりに、誰かに「どっか行け」と吐き捨てればいい。理解できない人を避ければいい。
だけど、だからと言って正体がなくなるまで殴ってはいけない。誰かがその人を保てなくなるほど傷つけてはいけない。それだけなのだ。

人間は優しくなくてもいい。優しい人だけだったら、きっと社会は上手く回らない。
人を傷つけたことに罪悪感を持ってもいい。だけどそれが少しであるならば、自分を許してしまえばいい。

それくらいの猶予がないと、この世は生きにくいと思うから。

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