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久しぶり雑記


今、日本に帰っていたときの写真やらビデオやらを整理しながら、色々なことを思い出している。
思えば随分長く文章を書くのをお休みしていたようで、地元にいたときも、東京にいたときも、その他各地を旅していたときも、散文のようなメモのような何某かを書き散らかしては、文章として完成させずに放置していた。

非日常にいると、知らないうちに省エネモードになっている。
それが三ヶ月も続くと尚更で、後半は惰性のように生きていた。

東京にいた頃はまだ、バイトに向かう途中に論文を読むくらいにはエネルギーがあったのだが、東北への旅を終えて、体調不良を抱えて地元に戻ってみれば、電池が切れたかのように何もしない。

一ヶ月だらだらと過ごして、また二週間ほど旅に出た。

文章のネタも何もかも、一人でいないと浮かんでこないので、私が残したメモは一人で旅をしているときのものが大半だ。

文学を巡る旅をしながら、過去の人を思い、街を思い、今の暮らしを思う。

私が手にしていて、今も読むことが出来るものを書いた人は確かに過去、この街で息をしていて、だけど今はもうどこにもいない。その人が暮らした街の形跡も、今はほとんど残っていないのだろう。

言葉は怖い。
その人を残して場に滞留してしまう。
私が書いたメモだって、このnoteだって、ネットの海を流れて滞留してしまう。
それはどこか、過去からの手紙のようにも思える。

過去、確かに人が生きて、死んだのだということ。
私が読む文章はこの土地の空気に包まれて生まれ、辿ることが出来るのだということ。

この人はどんな思いでこの文章を書いたのだろう。
自分の書いた文章が未来も読まれることを知っていて、望んで書いたのだろうか。それともただ、吐き出したくて吐き出しただけなのだろうか。

こうやって答えも返ってこない問いを考え続けるけれど、きっとそんなものはどうでもよくて、でもその人が私たちの文化史という曖昧なものに小さくとも爪を立てたことは、やはりどこか神聖なことのように思えるのだ。

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