【言葉遊び空論15】ぎなた読み ~現象から技巧へ~

 沖縄で 「スク」と呼ばれる アイゴの稚魚は 毎年夏場に 収穫される 貴重な魚とされ 地元紙でも 「スク水揚げ」と称して 紙上にタイトルが飾られている

 だが この地元紙の記事に 全国のネットユーザーが 食いついた

 後に 「スク 水揚げ」 である所を 「スク水 揚げ」(スク水→スクール水着の略) と誤読した事が 発端であると判明し 賢明なる捜査は 甚大な笑いと共に 幕を下ろした

 言葉の区切りが 異なるだけで これほど 雲泥の差を生む

 このように 言葉の区切りを変える事で 異なる意味になる現象 または技法を ぎなた読みと呼ぶ

 異分析とも 称する場合もあるが こちらの呼び名は 専門的な分野で 扱われる方が 主流であるらしい

「異分析」(metanalysis)という術語を用いたが、この術語はもともと、言語の史的変化の一様式を説明するために用いられたものである。たとえば、現代英語の adder (まむし)は a naddre が異分析によって an adderになったものであり〔正確な形態の変化は省略する〕、逆に newt (いもり)は an ewet を a newet に異分析した結果である。

郡司利男『ことば遊び12講』より

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(顔 面白い → 顔面 白い)



 先の定義で ぎなた読みは 「現象あるいは技法」と 筆者は添えた

 技法はまだしも 現象とは これ如何に と思われるだろう

 これには 巨大縦穴アビスほどではないが 深い理由がある

 ぎなた読みは その多くが 偶発的な要素が 強いのである

 冒頭の 「スク水揚げ」は 序の口

 短縮表記を是とする 紙面のタイトルでは このような事態は よく見受けられており かつて話題になったものでは

“暴力二男”殺害の母親らに実刑判決
 ※「暴力 二男」⇒「暴 カニ男」

アフガン航空相撲殺される
 ※「アフガン航空相 撲殺される」⇒「アフガン航空相撲 殺される」

 といった例が あまりにも有名である

 喜劇は 広告にも訪れる

 2009年 週刊マガジンの 裏表紙広告にて 男性用美容クリームの広告が 瞬く間に 注目を集めた

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 「ひと塗りでツヤ肌になれる カバー力」が あろうことか 「ひと塗りでツヤ肌になれるカ バーカ」と 絶大なる挑発性を 醸す事態となった

 この他 アニメ『巨人の星』のOP曲の歌詞 第一節「思い込んだら」を 「重いコンダラ」と捉えられ 当該歌詞の部分のアニメーションも 相俟って 整地ローラーの俗称として 「コンダラ」が 一部定着してしまったり というように 後に大きな爪痕を 築き上げた例すらある

(「旧中山道 → 1日中山道」)

 表記だけには 留まらない

 入力した文字列の 変換によって 思いも寄らない 区切られ方が なされるケースが PCの普及以来 横行する事となった

 誤変換と呼ばれる その例の多くは 同音異義の枠に 収まらず ぎなた読みと 化している例も 散見される

だいぶ使った → 大仏買った
冷めた意見 → サメ体験
心動く → ここ牢獄
髪とかしてる → 神と化してる
吹奏楽祭 → 水槽が臭い
寝台車 → 死んだ医者
ショウジョウバエ → 少女奪え

(ヨシナガ『ゆかいな誤変換。』より 部分的抜粋)

 ネットの 翻訳機能を用いた 再翻訳と呼ばれる かつて 大流行した 遊びがある

 現在に比べると あまり性能が宜しくない 翻訳が施される事を 利用して 日本語を外国語に変換 更にその外国語を再び日本語に変換 という手順を経る事により 妙竹林が言葉へ 変貌を遂げる様が 醍醐味であった

 例えば 「どこでもドア」→「It is a door anywhere」→「それはいかなる場所でもドアです」 といった具合だ

 この再翻訳においては 翻訳の際に 誤変換が生じる場合も 少なくない

 「すばらしきかな人生」が 「Wonderful kana life」に翻訳され 「素晴らしい仮名生活」と なった例もあり また一説には 「キン肉マン」が 「Gold meat pie」を経て 「金の肉饅頭」と 翻訳されたとの 話もある

 ネット世界における ぎなた読みという名の 文明病は ミームの如く 広がる

 ニコニコ大百科では シロナガスクジラ現象と呼ばれる 「記事があると見せかけておいて実は複数の記事のある単語が連なって一単語を成している(大百科内コメント欄での実際の書き込み)」現象も 頻繁に 発見されている

 これは 「ファンタスティック」「シナウスイロイルカ」「世界中の人」といった言葉が 該当記事へのリンク表示が なされているように見えて 実際は 「ファンタ」・「スティック」 「シナ」・「ウスイ」・「ロイ」・「ルカ」 「世界」・「中の人」という 別で存在している記事の単語の集合によって 恰も 単独記事として 表示されてしまっている という現象だ

 単独の記事さえ 編集されれば 必然的に この問題は 解消される事となり 今現在では 多くの記事が 実在を許されている

 ネット時代は 思わぬ所で ぎなた読みが 猛威を奮うのだ

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 このように ぎなた読みの多くは 偶然性に基づいている

 先に ぎなた読みを 技法のみならず 現象と称したのは この所以だ

 表記上の ぎなた読みは 句読点が無い事による 区切り地点の見誤りであり その性質は 「ロータリー」「ひつまぶし」のような 空目と似ている

 また 意図せずして 偶然にも そのように解釈してしまう といった面については 「どういうことなの」「カンノミホ」のような 空耳にも有される 性質を持つと言える

 その為 ぎなた読みと 極めて近似のジャンルを あえて 持ち出すとすれば こうした 空目もしくは空耳であろう



 ぎなた読みは 現象としての 側面を持つ

 だが 当然ながら 技法としても 活用がなされている

 「てぶくろ逆から言える?」に 並ぶであろう 小学生の遊び文句に

「ぱんつくったことある?」
「ねえちゃんとふろはいった?」

 という 肯定否定 どちらへ転んでも 嘲笑される返しが 用意されている 拷問的問い掛けがある

 全国的に 広く体験者を持つ ぎなた読みの例として これを越えるものは ないだろう

 また シンガーソングライター: つボイノリオは 『金太の大冒険』を始めとして 『極付け!お万の方』『吉田松陰物語』など ぎなた読みを 駆使した 歌詞の楽曲を 世に出している

 視聴する際は 下ネタに寛大なる心を持ちつつ 覚悟の上 挑まれたい

ある日金太が歩いていると
美しいお姫様が逃げててきた
悪い人にネェ今おわれているの
金太守って 金太守って
キンタマモッテ

しかし金太は けんかが弱く
友達とやっても負けてしまう
腕力に自信のない金太君
けんかはいつも負けが多い
金太負けが多い 金太負けが多い
キンタマケガオオイ

やがて悪人がやってきた
身の丈2メートルもある大男
金太と悪人の大決戦
金太負けるなとお姫様
金太負けるな 金太負けるな
キンタマケルナ

(『金太の大冒険』より)

 詞(詩) 繋がりで

 詩人:篠原資明の提唱した 超絶短詩も その性質は ぎなた読みであると言える

超絶短詩とは、 次の規則による短詩型です。
① ひとつの語句を、二つの語句に分解すること。
② 分解後のどちらか一方が、間投詞であること。間投詞とは、擬音語と擬態語を含む広義のそれである。

超絶短詩を作るにあたり望まれる準則は、次のとおり。
① 分解前と分解後とで、漢字の重複がないこと。
② 分解後のどちらか一方に漢字ひと文字を用いる場合、そのひと文字は、該当する読みとともに、通常は、ひと文字で用いられるものであること。

(『mabusabi』より引用)

 極限的に 短い詩を 生み出す というコンセプト かつ 明確なルールを敷いている事が 伺える

 単に 単語を区切れば 良い訳ではなく あくまで間投詞+漢字を含む語である為 「片田舎」→「堅い仲」といった類は 超絶短詩と認められない

嵐 → あら 詩
赤裸々 → 背 きらら
富士山 → ふ 自賛
哲学者 → 鉄が くしゃ
オットセイ → おっ 都政

 ぎなた読みの本格派も 忘れてはならない

 「汚職事件」と「お食事券」のように 言葉の二重の読み取りを メインとする なぞかけは 現象としてではなく 明確な技法としての 役割を担う 重要な遊戯である

「食器」 とかけて 「犯罪多発地域の夜道」 ととく
その心は 「気をつけないと さらわれます」
(皿割れます・攫われます)

「卒業式」 とかけて 「人生の晩年」 ととく
その心は 「せいとしを想います」
(生徒、師・生と死)

「徳島県」 とかけて 「石鹸で手を洗う」 ととく
その心は 「あわだった」
(阿波だった・泡立った)

(三遊亭楽生ほか『なぞかけQ』より一部改変)

 とは言うものの

 なぞかけは その回答に ぎなた読みが 技法として 用いられる 貴重な遊戯であるとはいえ 決して 多い訳ではない

 殆どは 区切りの別を 要しない 同音異義の域で 終始している

 殊に なぞかけ以上に ぎなた読みの技法を 確立した形で 一級の遊戯へと のし上がったのは 段駄羅をおいて 他あるまい

 段駄羅は 五七五の 詩形をとり 中の七音に 二重の意味を持たせ 上五七と 下七五の 二種類の句を 成立させる 能登半島に三百年余り 伝わる 伝統的遊戯と 言われる

 この段駄羅を 既に承知であるという読者は 誇り有る伝承者であるか もしくは 余程の 言語遊戯粋狂者に 違いない

魚売り 油売りから
    虻ら瓜から 牛へ飛び (あぶらうりから)

不倫とは 大胆ですね
     抱いたんですね 他人の妻 (だいたんですね)

スキャンダル 響く落選
       日々苦楽せん 人の世は (ひびくらくせん)

戦後史に 見直しかける
     皆押しかける 店閉まい (みなおしかける)

一の次 二、三、四で
    兄さん呼んで! 夕飯よ (にいさんよんで)

(木村功『不思議な日本語 段駄羅』より)

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(自作 短歌調段駄羅)



 ぎなた読みは 大きく 現象としての例と 技法としての例の 2種に分けられる事は 以上で お解りだろう

 しかし これは ぎなた読み成立”過程”の区分 である

 ぎなた読みには もう一つ ぎなた読みの成立”傾向”の区分 がある

 言うなれば ぎなた読みが なされた際に 出力された ”意味”の区分とでも 言い換えられるだろう

 はて 言わんとしている 意図が行方不明? 捜索を願う! ご安心を

 以下に解説と救助を施す

 それは 4種に 分けられる


1⃣別意

 ぎなた読みする事で 意味の異なった言葉になる型

 ぎなた読みの恒例として 挙げられる 「ここではきものを脱いで下さい」(ここで履物を・ここでは着物を)は まさしく この型であろう

 以前に 筆者の他の note記事のコメントで 「このからかうなよ」を 感嘆符を加える事により 「この殻買うなよ」「この!揶揄うなよ」になる例が 寄せられた

 句読点などの位置の違いや 付加・脱漏は 文章的ぎなた読みの 基本である

 この違いで 「お父さんお母さんを大切にしよう」という 子への呼び掛けが 「お父さん。お母さんを大切にしよう」という 父親への呼び掛けへと変容する例さえある

 この事が 時には 歴史的大事件へと 発展する場合さえある

 1872年 米国会において 関税法の改訂を行なう中 担当者が 文書において 非課税対象を 「fruit-plants(外国の果樹)」とする所を ハイフンとコンマを誤り 「fruit, plants(果物、野菜)」としてしまった

 これにより 非課税の対象物が 多大な範囲に及んでしまい 次期国会で修正がなされるまで 米政府は 100万ドルの損失を被ったといわれ この誤コンマは 「もっとも高価なコンマ」とまで 称された

英語が苦手な山田はmyを使って文を書けという問いに対しこう解答した
Mypenisbig.
数日後、答案が帰ってきた
山田のこの文章の隣には赤ペンで
1.単語間は一文字分のスペースをあけること
2.be動詞がありません
と美人の英語教師らしく綺麗な文字で書いてあった
しかし山田は
isってbe動詞じゃないの?と言っていた

 アニメ『怪談レストラン』の 主題歌「Lost Boy」(SEAMO歌)の中の歌詞 「運命のみぞ知る」を 「運命の味噌汁」という風に 聴覚運動を 炸裂させた視聴者が 続出したようである

 空耳との合わせ技を 繰り出した ぎなた読みの 一例と言えるだろう

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2⃣対意

 ぎなた読みする事で 意味が逆転する言葉になる型

 落語『日和違い』の中で 用いられる 「今日は雨が降る天気ではない」は あまりにも 有名である

 「今日は、雨が降る天気ではない」「今日は雨が降る。天気ではない」というように 「天気」という語の 多義性も踏まえつつ 区切る部分で 全く逆の意味と化している

 対意の例は 海外の言語に多い

 Don't eat fast.(急いで食べるな)
は体が痩せている人への言葉だが、コンマを一つ加え、
 Don't eat, fast.(食べるな、絶食せよ)
とすると、肥満している人への言葉になる。形容詞「速い」の意味の fast がコンマ一つで動詞の「絶食する」に変化する。

 Private No Swimming Allowed
 Private? No. Swimming Allowed
 プールの掲示板で、上は「私用、水泳禁止」の意味だが、これに落書きし、疑問符やピリオドを加えると、「私用(のプール)ですか?ノー。水泳してよろしい」に変わる。文字は一字も書き加えたり消したりせず、正反対の意味に変化する

(織田正吉『ことば遊びコレクション』より)
 漢文を読み書きすることは、実は中国人にとっても至難の業なのである。(中略)
 例えば道端に「行路人等不得在此小便」という立札が立てられていたとしよう。本来の意味は「行路人等、不得在此小便(通行人は、ここで立小便をしてはいけない)」だが、ややもすると「行路人、等不得、在此小便(通行人は待ち切れずに、ここで小便をせざるを得ない)」と錯覚する可能性もきわめて高い。

(金文学『「混」の中国人』より)

 また かつて利用されていた 電文では 句読点は勿論の事 濁点も省略された事によって この手の ぎなた読みは 諸所見られたようである

 西南戦争時に 打たれたとされる 「テキヘイシサツマタハコオフクスルモノオホシ」という電文は 「敵兵 自殺または降伏する者多し」という緊張感漂う文面 はたまた 「敵兵士 薩摩タバコを服する者多し」という余裕綽綽を匂わす文面 との逆転的な意味合いが 読み取れてしまう

 こうした ぎなた読みは 過去の産物に留まらない

 「○○さんじゅう××さい」は 容姿言動と実際年齢が 噛み合わないキャラクターの 様を表すスラングとして 現在でも 通用しているようである

 発祥は恐らく、『ハヤテのごとく!』の登場人物であるマリアさんである。彼女は実年齢が17歳であるにもかかわらず、見た目がどう見てもそれ以上を思わせるほど大人びた雰囲気であり、、また年齢不相応なレベルのハイスペックキャラであることから、いつしか「マリアさんじゅうななさい」と、ぎなた読みで三十七歳と想定させるように表現することで、そのギャップを正直に、かつオブラートに包んで申し上げるようになっていた。

(ニコニコ大百科『○○さんじゅう××さい』より)

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(あべななじゅうななさい)


3⃣順意

 ぎなた読みする事で 意味が順を追う言葉になる型

 いわば 区切り方の違いによって それぞれの言葉に ストーリー的な展開が なされるという型である

 単なる 逆転的な意味合い である対意型を 一歩押し進めたものであるとして あえて この型を区分したが その例は 極めて少ない

 「かねくれたのむ」が 「金くれ、頼む」と「金くれた、呑む」とで 展開の前後的な ぎなた読み生成が なされるのは この型の 好例と言っても 良いだろう

 筆者は この順意型ぎなた読みの とある例を リアルタイムで 体験している

 高校時代の ある年の学祭にて テーマが「〇〇祭はじめました」(〇〇は学校名) であったのだが 学祭の閉幕時には それが濁点を除いて 「〇〇祭はしめました」と なっていた

 即ち 「〇〇祭 始めました」が 「〇〇祭は 閉めました」と 様変わりしたのだ

 一体誰の考案か 今となっては解らないが 見事な演出と 感嘆せざるを得なかった事は 脳裏に 焦げ付いている


4⃣無意

 ぎなた読みする事で 無意味な言葉が生成される型

 先に挙げた 「暴カニ男」「アフガン航空相撲」「コンダラ」など それまで存在しなかった言葉が そのインパクトから 新規概念を付与され 命を授かった例を 指す

 無意型ぎなた読みの 多くは 読み間違えから 発生している

 「この先生きのこる」が 「この先 生きのこる」でなく「この先生 きのこる」 という錯覚を 生じさせてしまった為に きのこる先生 といったキャラクターまで 召喚されてしまった 愉快な例すらある

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 更にいえば

 そもそも この 「ぎなた読み」という名称も 「弁慶が薙刀(なぎなた)を持って」という言葉を 「弁慶がな ”ぎなた”を持って」と 面妖な区切りを 生じさせてしまった事により 発祥した産物であると 言われる

 この無意型は 特に 現代において その出没が 相次いでいるようであり 意味よりも 音感の面白さを 優先させた 特殊なケースであるとも 言えるだろう

 小説家:井上ひさしの 戯曲『国語事件殺人事典』では 「ベンケイ病」なる奇病を 患った人物が 登場しており

 先生馬鹿。……馬鹿しいですよ。なぜならぼくはもうたいていのカードの裏側を憶えてしまっていますもの。はためしだやってみましょうか。これが「いいえ」でこれが「はい」どう。ですか。

 というように ”病”によって 言葉の区切る場所が バラバラに なってしまう様が 描かれている

 蓋し 文学的作品として ぎなた読みを ここまで 露骨に利用したのは これが唯一では ないだろうか



 ぎなた読みには ある興味深い 活用法が存在する

 それは 既存の詩や文章などを 意図的に ぎなた読みさせる という路線だ

 その例は 凡そ ユーモアの中に 組み込まれる

 浮世絵師:山東京伝は 著作『百人一首始衣抄』の中で

今こむといひしばかりにながつきの有明の月をまちいでつるかな

(『小倉百人一首』 素性法師の歌)

 この歌を 

今こんといひ、しばかりになかつきの、ありあけのつきを、まち出るかな

 と 区切りを変え 『今”コン”といったのはキツネの鳴き声であったが、芝刈りの男と菜担ぎの二人がこのキツネに化かされ、まだ昼なのに急に日が暮れ道に迷ってしまい、有明行灯をともした家を目あてに行ってみたら、ようやく町へ出ることができた』 という解釈に 変容させた

 そこには 滑稽さを 引き立たせる為の 妙技としての 意図が 肌身に強く 伝わってくる

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 だが

 既存のテキストを ぎなた読みさせる作業は 時として 思いも寄らぬ 成果を生む ケースもある

 東洋史学者:宮崎市定は 「史書を読んで行く」につれて 「字句の誤謬が甚だ多いことに気が」ついた という動機から 『論語』の「本文を疑いながら読」み進め 「意味の通らない文章」は 「誤謬がある為ではないか」と仮定し 改めて考証かつ解釈するという 一大研究を成し得た

 その論語の”新解釈”の中で ぎなた読みに 相当する箇所が 見られる

 一例を挙げよう

述而第七
子曰。蓋有不知而作之者。我無是也。多聞擇其善者而從之。多見而識之。知之次也。

子曰く、蓋し知らずしてこれを作る者あらん。我はこれなきなり。多く聞きて其の善なる者を擇んでこれに從う。多く見てこれを識るは、知の次なり。

 例えば このテキストの末尾二句 「多見而識之。知之次也。」を 氏は 「多見而識之知之。次也。」であると考え 「多く見てこれを識りこれを知ることは次なり。」と訓じた

 即ち 「善いものを選んでそれを真似る。多くを見る事は理解の前段階である」といった 認識論的な意味ではなく 「善いものを選んでそれを真似て、次に多く自分の目で見て理解する」という 経験論的な意味になる という訳だ

 (従来の区切りを以て 「善いものを選んで見聞きして回る、それは知の代用品に過ぎない」と 独特の釈を掲げたケースも あるようだが もし 新しく導き出された区切りが 正当であったとすれば この釈は 脆くも瓦解してしまうのだが)

 思い返せば 童謡『おべんとうばこ』の歌詞にある 「おにぎり おにぎり ちょいとつめて」は 「おにぎりを にぎり ちょいとつめて」が正しい というデマも ぎなた読みによって 引き起こされた 陰惨極まりない事件であったと 見て取れるだろう

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(『-horipu.net- ホリプーオフィシャルブログ』より)



 ぎなた読みは その多くが 偶発的産物であり 現象としての傾向が強い

 これまで 多くの例を 見てきた中で その事は よく 知り得た事だろう

 しかし

 言語遊戯として見た時 それは 極めて不遇な評価である

 その意味では 現象としてではなく 技法としての ぎなた読みの地位を より高く築いていく事が 今後の課題では なかろうか

 では どのように

 先の4類型のうち 「別意」「対意」「順意」の 3種に基づき 自らの 語彙個性力を 発揮するする事も 一つの案であろう

 以下 自作 3種6例

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 ※「各、」は「おのおの、」と呼んだ方が良い

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 ※各例 ●はフリガナ基準の ○は原文基準 として区別

 だが この形式だけでは 自ずと限界が 見てくる

 そこで 今一歩 いずれ二三歩 踏み込んだ ぎなた読みの形式を 探る事も 必要となるであろう

 その一つのとして

 示唆は 数式の中に あった

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 上記は 左辺において プラスの配置が 異なっているが お解りの通り 双方で解は 同一となっている

 このように 数式にも ぎなた読みに 相応するものは 存在している

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 ここで 一つ 興味深い式を 以下に 見て頂こう

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 上の式の 指数を含む数字の配列が 下の式で演算記号により 区切りが変えられて 異なる計算式となっているが どちらも それぞれが等式として 成り立っている

 ここに圧倒的な電圧 閃光を発す

 これを 文字列で 行なおう事は 出来ないだろうか と

 如何様にして

 以下に 自作を掲げる

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 これは ”問い文”と”答え文”が セットであった時 「”問い”文をぎなた読みした文」と「”答え文”をぎなた読みした文」が また異なった 問答文のセットとして 成立している という形式だ

 こうした 応用によって 技法は技巧となりゆく

 言葉遊びは生き物である

 だが当然ながら これは 形式の一つの 案でしかない

 親愛なる読者である ワトソン諸君は 更なる ぎなた読みの形式を 今生に召喚し得る 才をお持ちの事だろうと 察する

 まだまだ ぎなた読みの可能性は 埋もれているはずだ

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