【言葉遊び空論02】衒学体

 衒学体 またを ペダンテスク

 文体・レトリックの用語であろうが 『現代作家論ジェイムズ・ジョイス』(丸谷才一編)の中に 収められている 寄稿文「ジェイムズ・ジョイスと多言語文体の伝統」(ヴィヴィアン・マーシア著)以外に お目に掛った事は無い

 文体の技法としては 殆ど 知名度が 息をしていないような モノであるらしい

 著者は この用語を 「ラテン語の単語に俗語の形を取らせる」技法だと 説明しているが それ以上 突き進んだ説明はしておらず 衒学体の実体を 探るには あまりにも心許ない 

 手懸りとして 先の寄稿文に 『フィネガンズ・ウェイク』(ジェイムズ・ジョイス著)から 衒学体の例が 引用されている

 A spethe of calyptrous glume involucrumines the perinanthean Amenta: fungoalgaceous muscafilicial graminopalmular planteon...
 【訳】蘇帽をつけた頴の仏炎苞が葇荑花を被っている。それは茸的海草的な芳香性羊歯的な牧草的棕櫚的な植物だった...



 ここから 少しばかり 大胆な行動に 踏み込んでみたい

 「先述の説明や引用から 推測される要素を基に 衒学体の実体を 新たに構築」してみよう という試みだ

 マカロニ体(マカロニック)だって 元は「自国語のラテン語化」だったのが 「自国語と他国語の融合化」へと 拡大延長していったのだから 現在に見合う様な形式として 捉え直す試みは 悪い事ではないと思うし あながち この試みは 間違ってはいないと思う 

 さて本題

 先ほどの 引用訳文の中を 見てみると 「芳香性」「棕櫚的」といった やけに 小難しげな用語が いくつも散見されるが どうやら 学術用語のような 雰囲気を醸している事は 想像がつく

 それもそのはずで ラテン語は 生物の学名や 特定の学術用語などでは 現在でも 世界共通の表記として 見受けられるモノだ

 世界共通の表記として 扱われる一方で ラテン語は その発祥たる欧州でさえ 現代では日常会話として 使用される機会は 殆ど無く 日本で言えば 「古文」に相当する存在となっている

 ここから衒学体とは 「古文的な単語を日常的な言葉として扱う技法」と 導き出す事が 出来るだろう

 そして ここにもう一つ 「衒学」 という言葉に込められた 「学問・知識をひけらかす」 という意味も併せてみたい

 そうすると ぐっと 衒学体の輪郭が 見えてきそうだ

 すなわち衒学体とは 「ある限定された分野で使用される用語を一般的な言葉のように文中に盛り込む技法」 多少噛み砕き 意地悪く言えば 「一般的ではない言葉を当然のように多用する技法」 と説明できるかもしれない

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(ながいけん『神聖モテモテ王国』より)



 この説明だけでは まだハッキリ イメージしにくいと 思われるので 手始めに 「一般的ではない言葉を当然のように使用する技法」 いわば 「平凡であるはずの会話の中で日常的ではない言葉の使い方をする」ケースを 当たってみる事にする

 フリーゲーム『OFF』(モーリス・ゴースト作)の キャラクターである 猫のような生き物:ジャッジ(The Judge)のセリフから 引用してみる

 ああ、そうとも。ここを通り抜けるためには、君の知的器官を用いる必要がある。わかるだろう?君の陳腐な頭蓋の中でだらしなく液体に浸っている物体だよ。
 君の視界に押し付けられる、プラスチックアートの全常識に反抗した相反する色彩の悪趣味なコントラスト。(中略)だが、外見だけで判断を下すのは早計だ。酷評せざるを得ない外観を持ちながら、それでもなお、この赤いキューブは非の打ち所がないほど便利なのだよ。
 すまないが、残念ながら否定的な返答を返さねばならない。

 以上は 全て有志による 和訳であるが 原文も この調子である事を 考えると 「会話にしては小難しく なおかつ 非常に回りくどい 言葉のチョイス」 という特徴が 浮き彫りになってくる

 この意味で 「平凡であるはずの会話の中で日常的ではない言葉の使い方をする」 という条件が 明確に合致するので 問題なく 衒学体として 取り扱えるだろう

 このあたりで なにやら 背筋をゾワつかせる羞恥 はたまた 胸の内から込み上げる興奮 どちらかを 感知する人達が 出てくるかもしれない

 以下の 例示によって その正体は 判明するだろう

エクセレント・ハウンド(黒鋼(くろがね)された猟犬)
ある魔術師が所有していた、漆黒の二丁拳銃。
装填される弾丸は「餓死させられた犬の霊」であり、目標に命中するまで疾走をやめない。
発射中は以下の呪文を唱える必要がある。
暗黒を暗躍する魔弾を装填。(COUNT A NUMBER OF DEATH.)
我が身を以って鉛となし(COLLECT A NUMBER OF BODY.)
我が血を以って火薬となす。(CURSE A NUMBER OF ALL.)
妖獣よ(NOW)
汝の疾走を――(let S――)
――歓迎する。(――start)
 「まさか、後罪(クライム)の触媒(カタリスト)を<讃来歌(オラトリオ)>無しで?」
 教師たちの狼狽した声が次々と上がる。
 ……なんでだろう。何を驚いているんだろう。
 ただ普通に、この触媒(カタリスト)を使って名詠門(チャネル)を開かせただけなのに。
 そう言えば、何を詠ぼう。
 自分の一番好きな花でいいかな。
 どんな宝石より素敵な、わたしの大好きな緋色の花。
――『Keinez(赤)』――
 そして、少女の口ずさんだその後に――
 カッターを使っていてちょっと指を切ってしまった。痛みはさほどない。 とりあえず切ったところを少し吸って、裏紙へペタンと指紋をつける。 「我が古き悪魔使いの血をもってここに失われし紅き契約を再び結ぶ」 と中二な呪文をつぶやいてみた。 課長居るなら言えよおおおおおおおおお!!!!

 「2ch(現5ch)の有名なコピペ」「ライトノベル『黄昏色の詠使い』(細音啓著)内の一節」「一時話題となったのツイート(@t_lav95)」から それぞれ 引っ張り出してきたが もうお解りの事と思う

 世に言う 現在一大ジャンルと化した 「中二病(もしくは厨二病)」に 見られる 一連の言語表現 いわゆる 『中二病語』こそは 現在を代表的する 衒学体の様式といっても 過言ではない

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(虎虎『中二病でも恋がしたい』より)

 しかしながら 中二病に関する 論評・特集は 数多あるが その殆どが 心理的・精神的・社会的な側面などからの 言及に留まり 言語あるいは文体的側面からのアプローチは 殆ど見られず あったとしても 「ファンタジックな外国語や横文字・難読漢字を使いたがる」 という一行で 済まされてしまう

 中二病文化に あまり 詳しくない事もあって 細部に至る言説は 出来ないが あえて簡易的に捉えた 中二病言語の特徴を挙げるとすれば

 ①自己中心的で特に自分を上の立場に置いた尊大な言い回し
 ②不釣り合いに壮大な言い換え
 ③既存のファンタジーやオカルトにおける世界設定の濫用
 ④特定の分野(学問領域・時代背景・宗教・古典など)でしか通じないあるいは使われない用語の多用

 などが あるだろうが 思い付いた限りでの 列挙なので 正確さの保証はない

 中二病の言語的アプローチは 誰か是非とも やって頂きたい

 そういえば 衒学と聞いて 思い当たる 文学作品がある

 そうだ 日本三大奇書の一柱として名高い 『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎著)を 挙げておこう

 試しに 適当なページを開いて 読んでみると良い

 しかし、私が精神萌芽[プシアーデ]と申しましたのは、要するに寓喩[アレゴリー]なのでございます。どうぞ、それを絵画的[ピトレスク]にはお考えあそばされないで。かえってその意味は、エックハルト(ヨハン。一二六〇――一三二九年。エルフルトのドミニカン僧より始め、中世最大の神秘家と云われた汎神論神学者)の云う霊性[ガイスチヒカイト]の方に近いのかもしれませんわ。父から子に――人間の種子が必ず一度は流転せねばならぬ生死の境、つまり、暗黒に風雨が吹き荒すさぶ、あの荒野[ヴュステ]のことですわ。もう少し具体的に申し上げましょうか。吾等が悪魔を見出し得ざるは、その姿が、全然吾等が肖像の中に求め得ざればなり――と、勿論、この事件最奥の神秘は、そういう超本質的[ユーベルウエゼントリッヒ]な――形容にも内容にも言語を絶している、あの哲学径[フィロゾフェン・ウエーヒ]の中にあるのです。法水さん、それは地獄の円柱を震い動かすほどの、酷烈な刑罰なのでございますわ

 『黒死館殺人事件』は 作者の衒学趣味を 炸裂させた作品であり 徹頭徹尾 カタカナのルビだらけの文体 や 様々な学問の専門用語の多用 といった調子で展開され(造語・捏造さえ含む) 発表当時から 賛否両論の雨霰であったという

 昭和も二桁を目前とした時代 その時点で既に 『黒死館殺人事件』は 日本の文学の中でも 衒学体の 到達点と見做す事が 出来る



 はい! では「古文的な単語を日常的な言葉として扱う技法」 という定義に基づくと 例えば 『武士語/サムライ言葉/ござる言葉』または『御所言葉/公家言葉/おじゃる語』などと言ったモノは 衒学体に含まれるのでしょうか?

 非常に 鋭い 問い掛け

 答えとしては おそらくグレーゾーン

 その言葉遣いが キャラ付けとしての程度で 語尾や一部の言葉のみで 断片的に用いられているのであれば これは『役割語』となるだろう

 しかし セリフ・文章全体として そのスタイルが 貫徹されているのであれば それは 衒学体と呼べるかもしれない

 漫画『磯部磯兵衛』(仲間りょう作)を 例にとろう

 皆どうかしてるで候!!

 主人公の放ったセリフの一つであるが 安易に 「~ござる」ではなく 「候(そうろう)」を通常語尾として 活用している新鮮さは さて置き この時点では まだ 『役割語』の域を 脱していない

 もしこれを 衒学体として 表現するならば 語尾ではなく 各所単語を 古文的表現で 言い回しで 統一する必要があるだろう

 なので これが 

皆の者が 現し心(うつしごころ)も無ぇ!!

 となれば おおよそは衒学体(それに属する技法)と称するに 値するだろう(なお これが翻訳として 正確な文章であるかは知らない)

 ポイントとなるのは 「(ある発言者・表現者の)文が そのスタイルに 統一されているか」にあると 考えられる



 ここで 1996年 アメリカで起こった 一つの事件を記そう

 物理学者:アラン・ソーカルが とある学術誌に 「境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて」 という論文を投稿し 後に その論文が掲載されたが 実はこの論文 「ポストモダンと呼ばれる 多くの運動家・思想家達は 自然科学などの用語を 意味も理解せず いい加減に使っている」という 批判を込めた いわば 『疑似論文/パロディ論文』であった

 内容は ポストモダンの学者達の言葉を数々引用し それに自然科学の理論を多用に関連付けたモノであったが 実際は 「ポストモダンの学者が行なっている(ソーカル曰く)ように 科学用語や数式を 全くでたらめに並べただけ」であり それが見抜かれるかどうか実験してみた というのが ソーカルの意図だったようである 

 数学的にいえば、デリダの主張は、時空多様体上の非線型な微分同相写像(無限回微分可能だが必ずしも解析的ではない時空多様体からそれ自身への写像)についてのアインシュタインの場の方程式Gμν=8πGTμνの不変性に関連している。肝心なのは、この不変群が時空多様体に「推移的に(transitively)作用する」ことだ。これは、任意の時空間の点が──そもそも時空点が存在するとしての話だが──任意の別の時空点に写像されうるということである。こうして、無限次元の不変群は観測者と観測されるものの区別を消失させる。かつては定数であり普遍的であるとみなされてきたユークリッドのπもニュートンのGも,今やそれらがもつ避けがたい歴史性の文脈の中でとらえ直されることになる。そして、仮想的な観測者は決定的に脱中心化され、もはや幾何学のみでは定義され得なくなった時空点とのあらゆる認識論的な連結性を絶たれてしまうのである。

 この事件については 多くの賛否の紛争が 今でも 飛び交い続けていると聞くが 本稿では ソーカルのこの疑似論文が 衒学体を理解する上で 絶好のサンプルである という立場に基づき 社会的意義は全く別にして これを賞賛する

 はい! ソーカルの論文は パロディあるいは疑似であったとしても 通常の学術書や専門書に対しても 素人や門外漢から見れば 衒学体と言えるのでは ないでしょうか?

 素晴らしい このような質問がくると こちらも考え甲斐がある

 表象=再現前化は、とりわけそれが無限なものに高められているときには、無底(サン・フォン)の予感によって貫かれている。しかし、表象=再現前化は、無限なものになり、こうして差異をわが身に引き受けてしまったので、その無底(サン・フォン)を、ひとつのまったく未異化=未分化(アンディフェランシェ)の深淵、差異(ディフェランス)なき普遍、無差異的(サンディフェラン)な暗黒の無として表象=再現前化するのである。言い換えるなら、表象=再現前化は、固体化を、《私》という形相と、字がという質料に縛り付けることから始めたのだ。
 わたしたちは、喩と喩のなかでの韻律のはたらきと、言語の韻律のはたらきをながめることで、つぎのようなことをみてきた。ひとつは、ある作品のなかで場面の転換はそのまま過程として流出せられたとき喩の概念にまで連続してつながっており、また、喩はその喩的な本質にまで抽出せられない以前では、たんなる場面の転換にまでつながっているということだ。
 哲学は、生成の現実性に投錨する。現実性とは、対象を措定する際の、文脈の担う不定性である。文脈は規範的に明確な境界を有する場合もある。しかし境界の外部が分離され切り捨てられることは決してない。ここに、文脈として想定され得なかったものが次なる刹那、文脈として参入する余地を残す。確定された規範が、同時に自らを覆す可能性を内在して規範となる。ここに潜在性が認められる。絶えざる外部の参入とは、外部の領地(文脈)化と脱領地化の継起である。

 手元にあった文献から 適当に選んだが 順に 『差異と反復』(ジル・ドゥルーズ著) 『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明著) 『生命理論』(郡司ペギオ-幸夫著) からの抜粋である

 この引用は 中傷や嘲笑を 目的としたモノでは 一切ない事を これらの著者の 支持者・愛読者などは ご理解頂きたい

 この分野に関心にない人 あるいは 触れた事のない人が 読んでも 一度だけで腑に落ちる者は あまりいないだろう

 そもそも 用語の意味を把握しないうちに 無暗に断片を 抜き出したら 誰でも混乱するだろう という批判は ごもっともである

 しかし これは衒学体か と言われると 簡単にその通りだと 肯ずる事は出来ない

 学術的・専門的用語とは 本来 複雑な過程で導き出された概念を 一言でまとめたモノであって 覚えさえすれば 意味が通じるように 出来ているはずだ

 一方で 衒学体は わざと そのような言い回しを行なう事に ある種の魅力を感じようとする いわゆるジョーク的な 側面がある点は否めず 「内容よりも表現の仕方が重要」といえる

 あくまで そうした 難解な言い回しが 日常空間の中に 紛れ込んでいる という事が 肝腎なのである

 であるからして 通常の学術書や専門書からをして 安易に衒学体と 呼ぶ事は 差し控える必要があると 考えられる



 今更だが 補足する

 衒学体は ざっくり言って 「難解な文章」である事に 違いないが 「どのように難解なのか」を 勘違いしてはいけない

 例えば 一端の法律や規約に 記述されているような文面

 これら至極難解と言われるケースはあるが これらは主に 「論述構成の複雑さ」に基づいた 難解さと見た方が良いし これは衒学体の エッセンスとなる 「非一般的な言葉の多用」とは 異なっている

 もっとも 中二病語で見た通り 衒学体は レトリックと解釈される以上 「そういう文体に変換する法則」が 整理出来るはずだ

 しかしながら 衒学体という技法が 文献その他辞書のたぐいで 取り上げられていない所を見ると 「文体の技法とみなされていない」 どころか 「技法それ自体の存在すら知られていない」 のが現状だろう

 衒学体の探究は まだ 一歩の前進すら 始まっていない


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