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すこやかな生活

一人暮らしをはじめて5か月がたった。
新しい道や近くのコンビニ店員の顔を少しずつ覚えて、抗えない時間の流れをあらためて知る。知らなかった街が馴染みのある街になっていくのが、うれしいのと同じくらい、ちょっと切ない。

わたし、ちゃんと生活してるんだなあ。

毎日ヘトヘトになって帰宅して、シャワーを浴びて排水溝の髪の毛を取り除く。取り除いた髪の毛を捨てるとき思い出すのは、柔らかい猫っ毛だったあの人のこと。


きたない部屋に住んでいる人だった。
ベランダには灰皿代わりのベットボトルがいくつもたまっていて、テレビ台の上には謎の小銭がたくさんあった。冷蔵庫の中の賞味期限切れのマヨネーズや、カレーがこびりついて取れなくなった鍋にしょっちゅう悲鳴をあげた。

こんな汚くてよく気にならないねえと言ったけど、混沌としたその部屋は不思議と居心地がよかった。

その人は、時間の経過を受け入れるようにわたしのことも受け入れたんだと思う。
くるまった毛布ごと、ぐるりと抱きしめられてねむった。息できないよって顔を出して、キスをした。服を着たままシャワーを浴びた。よく笑った。心地の良い、ぬるま湯みたいな無責任だった。

なかったことになるまで、どれくらいの時間をその部屋で過ごしたか覚えていない。いつ行っても部屋はごちゃごちゃしていて、わたしもだんだん掃除をしなくなった。それでも、排水溝にたまった髪の毛だけはいつも絶対に取り除いた。
黒くて芯のしっかりしたわたしの髪の毛は、茶色くふわふわした部屋の主のそれとはまるでちがった。あきらかに他人同士の髪の毛が絡まったかたまりを洗面台横のゴミ箱に捨てる。ふたり分の痕跡を丁寧に取り払うとき、あの人の髪の毛をうつくしいと思った。抜けた他人の髪の毛なんて触りたくもなかったし、今もそれは変わらないのに、なぜかあのとき、あの人の髪の毛を汚いと思えなかった。うつくしいと思った。

はじめから繋いですらいなかった手は、手放すまでもなく遠ざかる。


この先も、当たり前のように生活は続いていく。トイレットペーパーを買って、洗剤を買って、ゴミを捨てて、排水溝の髪の毛を取り除いて。もう交わらない人生の中で、かつて髪の毛を絡ませたことのある人をきっとわたしも忘れるんだろう。

薄れていく記憶を取り払うように、少し慣れた街の空気を吸い込んでみた。


404notfound うしなったことを何度も確かめている



#美しい髪

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