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そう問うあなたは何者ですか?

「なぜ仏教徒を名乗らないのですか」と質問されることがしばしばあるのだが、これは実に不思議な問いだなあといつも思う。私としては、そういう人たちが私に対して「仏教徒を名乗るべきだ」と考える理由のほうに、むしろ関心を抱いてしまうところだ。

「それだけ仏教の勉強をしているのだから」と言われるのだが、勉強をしているからといって、その対象と全く同じ思想信条を共有するに至るわけでは必ずしもないのは当然のことだ。例えば、ノンクリスチャンのキリスト教研究者などいくらでもいるし、カントを研究しているからといって、その人の考え方が全てカントと同じになるというわけでもない。私にとって、仏教は重大な関心の対象だから、できる限りの勉強も実践もして、その教説の内容を可能な限り正確に知ろうと試みてはいるのだけど、だからといって、私の世界における居住まい方(エートス)が仏教の指示するところと同じにはならないということは、何も不思議なことではないと思う。


こういうことは、日本の外では必ずしも問題にならないことで、例えば瞑想センターにやってきて熱心に実践をし、また勉強もしている欧米人たちに、「では君は仏教徒なのか?」と訊いてみると、「いや、自分はそんなことにはこだわっていない(I don't care)」とよく言われる。要するに、彼らは自分が物事を考えたり、生の指針を定めたりする上で有益だと思うから、その限りにおいて仏教と関わって、実践や勉強を行っているのであって、そこに「仏教徒」という余計な肩書きを介在させる必要はないというわけだ。私も、それで全く何の問題もないと思う。

「仏教徒」を名乗るということになれば、それはある特定のドグマを排他的に受け入れるという宣言に事実上なってしまうし(「仏教にはドグマなどない」というのは、それ自体が一つのドグマに他ならない)、世界と己に関して必要な手段は全て使って探究を行いたいと願う人間にとって、そうした宣言は障害になりこそすれ、得になることは何一つない。


実際、仏教思想には多様な体系があるけれども、私にとってはそのうちのどの一つであれ、「これだけで全てが済む」と言えるような、「完璧」なものではない。各々の体系は、それぞれ真理を分有してはいるけれども、同時に語りきれていない部分も有している、その意味で「不完全」なものであって、ゆえに常に他の体系も参照すべき余地を残している。そして、この事情は別の宗教や哲学や科学といった、他のいかなる知的体系についてであれ、私にとっては基本的に同じである。

だから私は、自己の思想的関心にしたがって、様々な知的体系の中から必要なものを学びつつ取捨選択し、そうすることで自身のエートスを構築して、その結果に責任をとる。そのような自らの知的態度について、私は何らの不都合も問題も羞恥も感じていないし、むしろこれは現代人としてはきわめて当たり前の知的な振る舞いであるとも思うから、それに対して、「なぜ仏教だけを排他的に選ばないのか」などと訊かれてしまうと、とても不思議な感じがするのである。


もっとも、実際にそのように質問されることがしばしばであるということは、私にとっては「当たり前」であることが、他の多くの日本人にとっては「異常」に感じられているということなのかもしれない。これについては、私は他人の感じ方までをコントロールすることはできないので、スルーしておくしかないのだろうと思っている。


※今日のおまけ写真は、雨安居明けの日に色とりどりの灯火で飾られた仏塔の境内。電飾ではなくて、普通のロウソクを使っています。

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