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すみれをただすみれとして

 昨日一昨日と岡潔さんの「ヤバすごさ」について書いてきたわけだけれども、そんな岡さんの著作がここ数年のあいだに様々な形で次々と復刊されているということは、やはりそれなりの数の愛読者が現代にもいるということなのだろう。ただ、彼のテクストが現代日本の新しい読者たちにどのように受容されているのかということについては、このところずっと東南アジアにいるせいもあって、私にはよくわからない。素朴かつ率直な感想を述べるならば、丁寧な読書の対象とした場合、岡さんのテクストというのは多くの読者にとって必ずしも「わかりやすい」ものではないと思うのだが、ひょっとしたらほとんどの人は私のように鈍ではなくて、最初から彼の文章を「画を見る」ような仕方で読んでおり、そういう方々にとって岡さんの言わんとするところを理解することは、さほどに難しいことではないのかもしれない。

 もちろん、岡さん自身は己の言いたいことを韜晦するようなスタイルで文章を書いてはいない。少なくとも、本人にそんなつもりは全くないだろう。むしろ、彼の文章はストレートすぎるくらいに自分の主張の表現にストレートだし、だからこそ隙だらけであるとも言える。自身の研究に「世間を持ち込む」ことを嫌った岡さんらしく、彼の表現は基本的に世間を生きる多様な読者の文脈に迎合するということをしない。彼のテクストは、あくまで彼の文脈に即して、それをより明らかにし、より深めるために書かれるのであって、その真っ直ぐさは実に清々しいが、同時に別の文脈の視点から眺めてみると、瑕疵の多いスタイルにもなり得る。

 こういう岡さんのスタイルを、彼が好む表現を借りて比喩的に言えば、「すみれの花は、ただすみれの花として咲く」ということである。しかし、可能なかぎり多くの読者の文脈を忖度しながら書くスタイルの場合はそうはいかない。すみれの花が好きな人はもちろんいるが、同時にれんげが好きな人も、薔薇が好きな人もいるのであって、そういうことを念頭に置きながらものを言うと、そのアウトプットはどうしてもすみれのようですみれではなく、薔薇のようで薔薇ではなくて、どんな花にも見えるがどんな花でもないという、何やら特殊な造花めいたものになる。

 もちろん、そうした造花には造花の魅力というものがあるのだが、時にはただシンプルに薔薇として、あるいはただすみれとして、そのまま咲きたいと思うこともある。そういう時には、やはりその花を見せる対象を、薔薇を見たいと思っている人たちや、すみれを見たいと思っている人たちだけに、限定する必要が出てくるだろう。

 とくに最近は、すみれをただすみれとして見せる、そのような語りもしてみたいという気持ちが私の中で強くなっていて、ならばそういう話し方を互いにしても構わないようなコミュニティを、自分で作ることも考えなくてはならないかなと、思ったりもしている日々である。


※以下の有料エリアには、先月のツイキャス放送録画の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の四本です。

 2018年11月11日
 2018年11月16日(さむさんとの対談)
 2018年11月17日(長尾俊哉さんとの対談)
 2018年11月26日(沼田牧師との対談)

 二月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の四本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。

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すみれをただすみれとして

ニー仏

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ニー仏

だいたい「もにょっとしたところ」の言語化をやっています。それと瞑想とか。noteは一部記事は有料、全文無料記事の場合は、ツイキャスでの過去放送視聴パスを、投銭に対する「おまけ」としてお知らせする形式で運営しています。

魚川祐司

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