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「文脈」を共有している人たちのゲーム

久しぶりに、アートやファッションの話など。そういう文脈から遠く離れて数年になる私としては、まさか自分がパリコレについて語り、セザンヌについてコメントを求められるとは全く予想していなかったので、本当に得難い刺激になった。

一つ気になったのは、現代のいわゆる「アート」が、ほとんど「文脈至上主義」の中で機能しているように思われることである。対談者のノートノートさんによれば、「現代アート」というのはマルセル・デュシャンの設定した土俵(文脈)の上に立脚しているものであり、制作者が考えるべきことは、その土俵の景色を新しく彩るピースをいかに文脈に合わせつつ提示するかということであって、そこにおいていわゆる「美」を直観的に把握して、それを素材の上に表現しようとする「芸術的衝動」のようなものは、むしろ邪魔になってしまうということであった。

しかし、これは(私のような)素人の目からすると、いわゆる「アート」が「古典芸能」へと変質してしまったことを示すのではないかとも思われる。例えば歌舞伎やクラシックバレエは、ある種の「古典芸能」として、それ独自の「文脈」をもち、演ずる側も鑑賞する側も、それを「勉強」して共有した上で、はじめてその場に「芸術」が成立する。逆に言えば、「勉強」して「文脈」を共有するという作業を経ていない人たちに対しては、そうした「古典芸能」は、説得力をもちにくいということだ。

もちろん、「アート」というのはそもそもがそうした「古典芸能」的なもの(つまり、「勉強」して「文脈を共有」した上で、はじめて「鑑賞」という行為が成立するもの)で、最初からそれが本質である以上、とくに「変質」などしていない、という見方もできる。

例えば、ノートノートさんは「芸大を出ていない人は、結局のところ名を残す『アーティスト』にはなれない」ということを言われていたので、「でも鳥山明の名前は百年残りそうだけど、彼は『アーティスト』には含まれませんか?」と訊いたら、「いや、少なくとも『ファインアート』と呼ばれるものは、ルーブルに収蔵されるような作品のことを指すので、現代の規範的な『アート』概念からすれば、鳥山明は『アーティスト』には含まれません」と言われていた。

つまり、鳥山明の作品は、(実際にそうであるように)宗教や言語といった「文脈」を越えて、世界中で受容される「普遍性」を備えているわけだけれども、そうしたものは「アート」には含まれず、上述のような「文脈」を踏まえての規範に沿った表現のことを「アート」と呼称するのが標準的である以上、そもそも「アートを鑑賞する」という行為に「文脈を勉強する」ということが含まれるのは定義により当然だ、ということにもなるわけである。

ただ、私のような学問・思想畑の人間からすると、「もし『アート』がそのようなものであるならば、それはテクストを『勉強』して『文脈』を共有している人々に受容される学知の領域と何が違うのか」ということも気になってくる。

例えば、高等数学の領域における最新の成果を「鑑賞」するためには、受け手のほうに「勉強」が必要なのは当然だし、サンスクリットで書かれた文法学のテクストを読んで「快楽」を感じるためには、それなりの「鍛錬」を本人が行ってきていることが前提になる。それぞれの文脈には、もちろん「勉強」をしてきた人には理解できる高い価値があるわけだが、それは「文脈」を把握していない人にとっては、そもそもアクセスすることの不可能なものだ。

いわゆる「芸術」というものには、そういう「文脈」を越えて鑑賞者を普遍的に感動させる強い「力」があるというイメージは、一般にはまだまだ抜き難く存在するように思うけれども、実際の「アート」はそういうものではなくて、あくまで学知と同じように、「文脈を共有している人にのみアクセス可能なもの」であるとしたら、その価値は、一般に考えられているよりも、ずいぶん下がってしまう可能性があるのではないか。

多様に細分化された学知の領域と同じく、いわゆる「アート」が、「文脈を共有している人たちによるゲーム」になっているとするならば、それは「勉強」をしていない人には価値のわかりにくいものになるし、またそうである以上、そもそも理解するための「勉強」をしなければならない理由も、そのサークルの外部の人間からすれば、よくわからないことになってしまう。

例えば高等数学の領域であれば、「あなたにはわからないかもしれないけれど、これはあなたの知らないところで、きちんとあなたの生活の役に立つことになるのですよ」と主張することも可能であるかもしれないが、いわゆる「アート」の場合は、そのように「文脈を共有しない人たち」に自らの価値を訴える手段は何になるのか。あるいは、そもそも「文脈を共有しない人たち」には、自らの価値を伝える必要性を感じていないのか。そのあたりは、個人的に気になるところだ。

とはいえ、もちろん上記は「アート」に関してはド素人である私の愚見に過ぎないものであり、おそらくこの種のことであれば、当該の分野では百年前に語り尽くされているのだろう。

昨日の記事でも放送でも言ったことだが、ここ数年の私は、どちらかと言えば「事象そのものへ」の関心に集中していて、そこに成立する「文脈」のほう、即ち、物語や芸術に関しては、敢えて探究することを禁欲していた。

だが、「事象そのもの」を探究するにも「文脈」のことを全く忘れることはできないのは当然だし、また思いがけず作家やデザイナーの方々とお話しできて、その世界に関する興味も再び私の中に戻ってきたので、そろそろ「勉強」をしなおしてもいい頃合いなのかもしれない。ノートノートさんからは「セザンヌ→デュシャンの流れが現代アートの文脈を理解するためには決定的に重要だ」と教えられたので、まずはそのあたりから、ぼちぼちやっていこうと思う。


※今日のおまけ写真は、道端にいた「体重測定屋」さん。一回50チャットだそうですが、これで商売が成り立つのがすごい(O_O)

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