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無理でも無駄でも説明する

ゴータマ・ブッダの有名な態度に「無記(avyākata)」というのがあって、これは「世界は有限か無限か」、「霊魂と身体は同一か」といった形而上学的な質問には、彼が黙していっさい答えなかったことを指す。

この無記については、「それはゴータマ・ブッダの逃げではないか」とか、「彼はごまかしたのではないか」などと、しばしば言われることもあって、正直なところ、私もミャンマーに来て自ら実践を試みるまでは、そのような印象をもっていた。

例えば「世界は有限か無限か」という質問について、答えが一方に決まっているのであれば、それを教えてやればよいし、どちらを答えても正しくならないのであれば、それを説明してやればよい。私は言葉で解明できることの範囲は、普通に考えられているよりもずっと大きいと考えている生粋の「説明厨」なので、経典で形而上学的な問題を一生懸命に質問しても、あっさりスルーされてしまう仏弟子たちの様子を見るたびに、「俺だったら、こんな対応されたらすぐに弟子をやめてるなー」と、密かに思っていたのである。

ただ、上述したように、ミャンマーに来て自分で実際に瞑想等の実践を行ってみてから、この私の考え方は少々変わった。形而上学的な質問を受けた際のゴータマ・ブッダは、「そのような問いは解脱・涅槃には導かない。私が教えるのは、そのようなことではないのだ」と言って、代わりに縁起や四諦といった、仏教の基本教理を説くのが常であったのだけど、そうした態度にも、それなりの合理性・妥当性はあるのだと思うようになったのである。

先日の記事でも述べたように、仏教の瞑想というのは、単に実践者の「考え方」を変えるような性質のものではなくて、その前提となっている、認知もしくは「現実」そのものを、変更あるいは拡大しようとするものである。

例えば、「群盲、象を撫でる」という有名な喩えがあるが、これは目の見えない人たちが象を撫でて、ある人はその鼻を撫でて「象というのはホースのようなものだ」と言い、またある人は耳を撫でて「象というのは団扇のようなものだ」と言い、そしてまたある人は足を撫でて「象というのは太い柱のようなものだ」と言ったりする様子を描写したものである。

もちろん、象というのはホースでも団扇でも太い柱でもないのだが、そのことは、象を触覚だけで知った人々には伝えにくい。そうした人々に、「いえいえ、象というのはそういうものではないのです」と言って、言葉で説明を試みることは可能だし、それで理解できる人もいるのだろうが、人間というのは自分が「現実」として認知した内容には執着してしまうものだから、それで納得できない人々も多く存在することになるのである。
(これはあくまで比喩であるから、現実の視覚障害者の方々が象を理解できないという話ではないのは当然である。為念。)

そういう人々に対しては、当該の問題について「議論」したり「説明」したりするよりも、前提となっている認知の領域をまず変更してもらうのがいちばんである。「群盲」の喩えに即して言えば、彼らの問題は、触覚だけで象を知ろうとしていることなので、その解決のための最上の手段は、まず何よりも目を開いて、視覚で象を捉えてもらうこと、ということになるわけだ。

ゴータマ・ブッダが形而上学的な質問を受けた際に、それにまともに答えずに、四諦や縁起といった仏教の基本を教えるのみであったのも、事情は同じことである。彼からすれば、「世界は有限か無限か」などと訊かれるのは、「象はホースですか団扇ですか」と質問されているのと似たようなもので、要するに問い自体が全く明後日の見当違いだということになる。

だが、そのことをいくら言葉で「説明」しても、普通の人々は通常の自分の認知にしたがって既に「世界」を立ち上げていて、それに基いて判断や推論を行っているから、その前提が変わらない限り、いくら議論を尽くしたところで、物事の実際(如実)について教えるのは難しい。だからゴータマ・ブッダは、そこで「説明」をする代わりに、四諦や縁起の教えを説くことによって、まずは本人の「目を開いて」、「世界」認識の前提を変えることを、優先しているのである。

相応部の『三昧経』でゴータマ・ブッダは、「比丘たちよ、三昧(samādhi定)を修習せよ。入定した比丘は、如実に知見するのである」と弟子たちに教えている。戒・定・慧(戒律・禅定・智慧)の三学はあらゆる仏教の基本だが、物事をありのままに見る智慧(如実知見)の前提として、なぜ禅定が必要とされるのかと言えば、それがもたらす強烈な集中力によって修行者の認知が現実に変更されて、そうしてはじめて、「ありのままを見る」という事態が生じると、仏教では考えるからである。

逆に言えば、判断や推論の前提である「現実」認識が変わっていない凡夫に対して、智慧に関する「説明」を重ねることは、それが「推論の領域を超えたもの(atakkāvacara)」である以上、多くの場合は徒労に終わる。そんな無益なことをするよりは、その種の「説明」の要求はとりあえずスルーしておいて、まずは「目を開く」ための手段を教える、というゴータマ・ブッダの「無記」の態度は、それなりに妥当なものであっただろうと、いまの私は考える。

ただし、私は上述のように生粋の「説明厨」であるから、無理であったり、ひょっとしたら無益なことであるとしても、(この文章からもわかるとおり)できれば言葉で可能な限りの「説明」を尽くしてみたくなる。もちろんそれを丁寧にやろうとすると文章の量は増えるし、テキストへの言及や引用も頻繁にやらねばならないことになるから、ウェブ上ではとても完遂できないので、それは『仏教思想のゼロポイント』で徹底的にやった。

何かが「推論の領域を超えたもの」であり、それを知るには「体験」が必要であるとしても、それがなぜ「推論の領域を超えたもの」なのであり、なぜ「体験」によってそれを知ることができるのかということは、少なくとも現代日本人を対象に話をする場合には、丁寧に説明しておく意味も価値もあるだろうと私は考える。そういう意味で、あまり「無記」ではないのが『仏教思想のゼロポイント』なのだが、これはこれでなかなか面白いと思うので、早く皆さんの手元に届けたいものである。


※以下は投げ銭用の有料設定なので、その下に文章はありません。


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