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「同じ」でなければ許されない

 しばらく前に、長くタイに在住している日本の方と、寿司をつまみながらゆっくり話をする機会があったのだけど。

 そこで話題になったことの一つが、「日本に帰ると、タイにいる時よりも緊張しますよね」ということ。そして、その原因の一つは、日本の人たちが他人のちょっとしたミス(あるいは、不規則行為)に対して、ものすごく厳しいことなんじゃないか、みたいな話をしたが、これについては以前にもツイートしたことがある。

 もちろん、私たちも別に「出羽守」をやりたいわけではないので、だからといってタイのほうが日本より全面的に住みやすいとか、日本が誰にとっても緊張を強いる国だとか、そういう主張をしたいわけではない。ただ、こういう所感は海外在住経験のある人、とくにタイやミャンマーなど東南アジアの国にしばらく暮らしたことのある人は、多くが抱くものであるらしいことも、管見の範囲内では事実である。

 なぜこんなに、日本の人たちは「不規則なもの」に厳しい(と、私たちには感じられる)のか、と考えてみたのだけど、その一つの原因は、よく言われることだが、私たちが「周囲の人々から見て『同じでなくなる』ことを非常に嫌う(恐れる)」ことにあるのではないかと思う。

 自分自身が、常に「周囲の人々が実行している『普通』と同じように振る舞う」ための努力を(当たり前のように)続けており、それができている人だけを(自分自身を含めて)「社会の成員」であるとみなすように、私たちはそれこそ幼稚園の砂場時代から、ずっと訓練をされ続けてきている。ゆえに、そうした日本社会の中で「不規則な振る舞い」をする人を見かけると、直ちにそれが「社会(世間)の敵」であると認知してしまうようなモードを、私たちは内面化してしまっているのではないか。

 そんなふうには考えはするものの、とはいえ自身のそういうモードを自覚するためには、「そういう仕方でなくとも成り立っている社会」を、実際に見てみないことには難しいだろうとも思う。

 たとえば、以前にも上のようなツイートをしたように、タイ社会、とくにバンコクではセクシャル・マイノリティの人たちが、「受容」という言葉をわざわざ使うことに違和感があるほどの「当たり前」感で社会に包摂されて、自然に(つまり、いわゆる「腫れ物に触る」ような扱いはされることなく)社会のなかで生活しているのだけど、「こういうこと(自然な扱い)があり得るのだということは、日本にいた時には実感としてわからなかった」と、タイで暮らしている日本人ゲイ当事者の方も言われていた。

 また、私自身も、これはどう書いても「出羽守」っぽく受け取られることを避けられないところはあると思うが、「日本特有の息苦しさ」を、ミャンマーやタイで長く暮らしてみて初めて実感するということは、なかったとは言えない。

 タイ社会がそのように、性的あるいは身体的な多様性に比較的寛容であることには、「この世のことについて人間が全て責任を取るべきだ」という感覚が、日本人よりは比較的希薄であることも背景にあり、そのことについては宗教の影響が非常に強いのではないかと私は見ているが、これについて述べだすと、また長くなってしまうので、それは機会を改めて、ということにしたい。

 なお、冒頭に述べた「長くタイに在住している日本の方」というのは、ツイッターにもいらっしゃる長尾俊哉さんのことであり、長尾さんには、来たる11月17日土曜日の21時ごろより、ツイキャスにてお話を伺う予定であるので、ご関心の方はどうぞご視聴をいただきますように。タイのセクシュアル・マイノリティや教育、宗教の事情などについて、実際の経験に裏打ちされた、かなり詳しいお話が聞けることと思います。


※以下の有料エリアには、先月のツイキャス放送録画の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の五本です。

 2018年10月6日
 2018年10月16日(1)
 2018年10月16日(2)
 2018年10月16日(3)
 2018年10月20日

 十月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の五本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。

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