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「怒らない」というファンタジー

 写真はバスに貼られていたBNK48の広告。あるタイ人女性いわく、「まあ私には何ひとつ良さがわからないけど、男の人はああいうの好きだよね」とのこと。だが私にも良さはいまいちわからなかったので、たぶん私は男の人ではないのだと思う。

 先日の対談で藤田一照師は、「僧侶になって長年修行しても怒ることは普通にあるが、ただその怒り方は変わったかもしれない」「そのあたりは、ロマンチックなファンタジーによるのではなくて、現実的に見ていかなければならない」という趣旨のことを言われていたが、これは実に貴重な指摘で、自ら仏道修行を続けながら、それを家庭などにおける俗世間での生活に「着地」させる努力を、現実に続けてられきた方だからこそ、口にできる言葉だろう。

 もちろん、たとえばテーラワーダの僧侶などであれば、怒ることは確実によくないことだし、そういう感情の動きをもたらす根源的な欲望(衝動)そのものが、瞑想を通じて抜去されていくものだともされている。実際、ウ・ジョーティカ師などは、著書で「私はもう怒るということはない。ただ、ちょっと悲しくなるだけだ」ということも言われている。

 ただ、日本においては見逃されがちなことだが、そのようなテーラワーダ僧侶の「怒らない」という生のあり方は、労働と生殖を放棄し、私たち一般の俗人が生きる取引の文脈からは身を離して暮らすという、出家者の生活規範とセットになっているのであって、それを私たちも、俗人としての生活を手放さないまま、全く同じように実現すべきだということになると、これはかなり「ロマンチックなファンタジー」の世界に近づいてくるように、私には感じられる。
(※ここで私がしているのは、「そうあるべき」という規範の話ではなくて、現実に「そうなっているのかどうか」という、生の事実に関する話であることにご留意いただきたい。)

 実際のところは誰にだって理解されているように、俗世間において取引の文脈が不可避的に介在する中で、それでも他者との関係性を総合的に、それなりに取り結んでいこうとした場合、怒りのエネルギーがポジティブな作用をすることはしばしばある。ゆえに、仏教者であると同時に生活者でもあるような修行者が、その怒りのエネルギーを抹消しようとするのではなくて、むしろそれを包摂する方向に進むことは、ある意味では当然のことだろう。

 とはいえ、仏教の場合には表看板のイメージはどうしても「ロマンチックなファンタジー」のほうになりがちだから、そこから外れたことを言う人は、「なぜ君は私のファンタジーのとおりに振る舞わないのか」と、攻撃されてしまうことになりやすい。

 どうせその種の人は、「ロマンチックなファンタジー」に沿ったことを言う人に対しては、「でも現実は」とやりはじめるのだから、そんな手合は無視しておけばいいだろうと私は思うのだけど、実際的にはなかなかそうもいかないようで、仏教の人たちは大変だなあと思ったりもするのであった。

※以下の有料エリアには、過去のツイキャス放送録画(私が単独で話したもの)の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の四本です。

 2018年1月30日
 2018年2月16日
 2018年2月21日
 2018年3月6日

 六月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の四本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。

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