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誰が「自分」をゆるすのか

 声をかけてもらって、なんとなく話をしていたらそういう流れになったので、真っ昼間のニートタイムに、さむさんとツイキャスをしてしまった。話題はいろいろだが、とくに印象に残っているのはキリスト教に関する話。キリスト教には日本人にとって厳しいところが様々にあるけれども、「原罪」という概念はやはりスゴイのではないか。全てとは言わないが、それでも一定の数の人たちは、自身の存在に不確かさというか、ある種の「うしろめたさ」、あるいは根拠の欠如感を抱えていて、それに「原罪」という名前を人類一律の罪として与えた上で、神様がそれを赦してしまうというシステムの凄みというもの。そして、それを必要としている人は、現代日本においてもおそらくは少なくないだろうとか、そんな話。
(※録画はおそらく、来月の「おまけ」に入ります)

 「自分で自分を肯定する」とか、「自分で自分をゆるす」とか、そういう話はどこでも普通に語られているし、それが言わんとしていることはもちろんわかる。そして、そのように語られることで、実際に救われる人も多いだろうと思う。ただ、私個人の考え方を言えば、おそらく人間は「自分で自分を肯定」したり、「自分で自分をゆるす」という行為では、究極的には満足を得られないのではないか。そういう試みをしてみることは(なにしろ自分でやるのだから)当然できるし、それで十分に満たされたと感じられるのなら、言うまでもなくそれでよい。だが、相当数の繊細な人たちは、本来的には他者から与えられることを求めていたはずの「肯定」や「ゆるし」というものを、「自分」の中だけで完結する行為にとどめてしまうということに、違和感を捨てきれないのではないか。

 「自分で自分を肯定」したり、「自分で自分をゆるし」たりするということに、まるで淡い陰影のように伴う欺瞞性に堪えられない人たちは、多くの場合、そこで社会や他人からの肯定や赦免を求める。そのことに成功して、そこで安心が得られるのなら、これまたそれはそれでよい。だが、そもそもそうした承認が得られなかったり、あるいは移ろいやすい他者や社会からの承認を確保し続けることに疲れてしまったりした人は、そこで主観的にはより確実で恒常的な、絶対者からの肯定や赦免を求めるに至るかもしれない。

 ここで言う「絶対者」は、いわゆる「神」のことだけではなくて、たとえば『感じて、ゆるす仏教』で藤田一照師が言われている「大自然の精妙なはたらき(本書では、これが「仏」の言い換えとしても語られる)」のことを指しているのだと考えてもよい。そのあたりは、本人がどちらを親しく感じるのかという問題になってくると思うが、そこをはっきりと「神」や「仏」と言ってくれたほうが受け入れやすい人も、今後はますます増えてくるのではないかと予感した午後なのであった。


※以下の有料エリアには、先月のツイキャス放送録画の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の四本です。

 2018年11月11日
 2018年11月16日(さむさんとの対談)
 2018年11月17日(長尾俊哉さんとの対談)
 2018年11月26日(沼田牧師との対談)

 二月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の四本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。

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