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「自分の気持ち至上主義」の国

部屋の蛍光灯がつかなくなっていたのだが、人に頼んでも「わかった! やるよ!」と良い返事が来るばかりで、全く実行してくれないので、そのへんの工事現場にある梯子を借りて(部屋の天井がすごく高いのだ)、さっさと自分で交換した。ミャンマーでは、お願いしても実際に物事が動くまで時間がかかるので、たいていのことは、このように自分でやってしまったほうが早く済む。

昨日の記事に書いた、ベルギーでデザイナーをやっている日本人の方との話で、面白いトピックがあった。彼によれば、デザインの世界でも、日本人はやたらと我を立てるというか、「自己主張」が激しいらしい。ヨーロッパの人たちはそんなことがないのに、日本人は仕事の現場でも「私はこう感じるんです」ということばかりを言い立てるから、作業が実にやりにくいと彼は言っていた。

これは欧米人は「自己主張」が激しく、日本人はあまりそれをしないという一般的なイメージとは真逆の話で、ちょっと意外に感じる人もいるかもしれないが、私からすれば、深く納得できることである。「どうしてそうなるんだと思いますか?」と彼から訊かれたので、「それは日本人がみんな『自分の気持ち至上主義』だからですよ」と、私は答えた。

以前の記事にも書いたように、戦後民主主義の日本に育った私たちは、「価値観は人それぞれの多様なものなのだから、『こう生きるべき』という生の一般的な指針のようなものは存在しない。ゆえに、自分が『楽しい・気持ちいい』と感じることを実現し続けて生きるのが最上の人生である」という、社会的なメッセージを受け取り続け、それを内面化してしまっている。

したがって、私たちの多くにとっての幸福の条件は、「こう感じる私」の気持ちが最大限に満足され、またそれが同時に、他者からも尊重されることである。「気持ちいいことが幸せだ」という以外の幸福の定義を私たちは知らないし、他者に「私の気持ち」を尊重してもらわなければ「嫌な気持ち」になる以上、このことは当然だ。

さて、このように「気持ちの満足」が自己の幸福の条件になってしまっている以上、私たちにはそれを手放すことはできない。快・不快の感受のあり方によって自分が幸福であるかどうかが決定されるのだから、それはほとんど「自分自身」と同一視されてしまうからである。つまり、「気持ち」が己のアイデンティティそのものになってしまうということ。言い方を変えれば、「気持ち」を離れた時に「自分自身」として残るものが、何もなくなってしまったということである。

だからこそ、現代日本人である私たちは、あらゆる機会を捉えて「自分の気持ち」を主張する。それを自分に言い聞かせ、他者にも承認してもらわなければ、「自分」そのものが消えてしまうように感じているからである。

もちろん、各個人がそのように振る舞うことで、それぞれが「自分らしく」生きられる「多様な社会」が実現すると、現代日本人は考えているわけだが、私見では、それはずいぶん怪しいところだと思う。いつも言うように、「自分の気持ち」などというものは、実際のところ「自分」がそれをコントロールして「浮かばせている(引き起こしている)」わけではないし、そうである以上、それは「自分にとって他なるもの」から有形無形の影響を受けた上で生じてくる、「他者の文脈」の無自覚な内面化の現象形態に過ぎないものであるからだ。

そのような「自分の気持ち」を、社会の各成員がひたすら主張し続ければどうなるか。その結果はもちろん、無自覚のまま互いに互いを影響下に置き、それぞれが必死に「自己主張」を続けているのに、言うことはみんな似通ってきて、それでも合意できるのは「みんな自分の気持ちが大事」ということだけだから、最終的には「空気」を読んで相互に「相手の気持ち」を傷つけないことを暗黙の至上命題とするしかなくなるという、「自由」でも「多様」でも全くない社会である。

「自由」というのは、それを行使する「主体」が存在しなければ意味をもたない概念だが、その「主体」が私たちの多くにとって「気持ち」になってしまっている以上、これは避けられない帰結である。カントであれば、そんなものは「自由(Freiheit)」ではなくてただの「恣意(Willkür)」だと言うところだろうが、ならば私たちにとっての「自由」とは何であるかということは、そろそろ一般を巻き込む広い文脈において、再考されてもいいことかもしれないと思う。


※今日のおまけ写真は、お坊さんたちの食事風景。これはお布施のあった日で、料理もなかなか美味しそうです。

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