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何もしないから価値がある

東南アジアにおける仏教のサンガのシステムを見ていると、これは本当に奇跡のような制度だなあといつも感じる。なにしろ、「二度と生まれないこと」を目指して修行している無産者の集団を、社会の中で生きる普通の人々が自分の収入や労力を出し合って支えているのだ。こんなことは、日本だとなかなか考えにくい。

もちろん、こうしたサンガ(僧侶の集団)の価値を理解する人は日本にも一定数いるし、彼らの中には同様のシステムを日本にも移入したいと考えている人たちもいる。だが、私自身は率直に言って、こうしたサンガのシステムが日本に根付くことは難しいだろうと思う。

瞑想センターや教学の伝道・教育をする寺院などを日本に作って、そこで少数の僧侶を養うことであればもちろん可能であろうし、そういう場なら既にいくつか存在している。ただ、東南アジア諸国のように、多数の僧侶が「単に僧侶であるという理由によって」社会から支えられて修行を続けていくことは、日本だと想定しにくい。そのための思想的な条件も文化的な条件も、日本には整っているとは言えないからである。

まず思想的な面での難点を一つ言えば、日本人が単に僧侶であること、即ち、「ひたすらに『無為』を志向すること」を、どれだけ評価できるのかという問題がある。

例えば、日本の場合は僧侶たちが葬式などの法務を行い、それによって得られた「お布施」によって生活している。多くの人たちは、これを僧侶の「仕事」だと考えているが、原理的な観点から言えば、僧侶というのは労働と生殖を禁じられている存在なので、「仕事」をすることは基本的にない。つまり、何かしらの労働を提供することで、その対価として報酬を得るという「取引」を、原則的には行わないのが僧侶という存在であるということだ。

ゆえに、「お布施」というのはあくまで檀信徒の自由意志による喜捨なのであり、(少なくとも建前上は)法務の対価としての「報酬」ではない。一般には僧侶は葬式などの際に「お布施」の額を明示しないので、それが人々の不満の種になることもしばしばであるが、これも上記の原理的な仏教の精神が、それなりに生き残っているがゆえである。金額を明示した「お布施」の要求を行ってしまったら、それは法務の対価として「報酬」を得る「取引」の意図を、どうしても含むことになるからだ。


私たち現代日本人は「こうすればこうなる」という「取引(bargain)」の文脈、言い換えれば、はからいによって結果を得ようとする「有為」の文脈に慣れきっているから、「お布施」というのは僧侶が法務という「労働」を提供してくれた対価であると自然に考える。同様に、瞑想という「技術」を教えてくれたのなら、それに対する報酬を払うことには抵抗がないし、教理という「知識」を開示してくれたのなら、それに対して料金を払うことにも抵抗がないであろう。つまり、僧侶が「何かをしてくれた」なら、それに対する報酬を支払うことには、日本人は必ずしも消極的ではなかろうということである。

ただ、僧侶に対して敬意を払い、その生活を支えるということは、仏教の原理的な立場からすれば、むしろそうした取引の文脈を離れようとすることそのものである。僧侶というのは、私たちに「何かをしてくれる(有為)」から尊いのではなくて、むしろ「何もしない(無為)」からこそ価値がある。私たちが生きているのは「こうすればこうなる」という取引の文脈が支配する有為の世界だが、僧侶というのはその文脈から身を離すことで、条件付けから解放された無為の世界に至ることを目指す存在であり、ゆえに俗から区分された聖なる存在として、人々から供養される価値をもつ。東南アジアの仏教世界において僧侶が「何かをしてくれるから」ではなく、「単に僧侶であることそのものによって」尊重される、根源的・原理的な理由はこれである。

とはいえ、もちろんこれはあくまで「根源的・原理的」な観点からした場合の話であって、現実問題としては、東南アジアの仏教世界で檀信徒たちが捧げるお布施にも「取引の文脈」は強く介在しているし、またそうでなければ、仏教が一般社会の人々に広く受容されて、長い歴史を生き残ってくることはできなかっただろう。

では、東南アジアの仏教徒たちはお布施をすることによって何を得ているのかと言えば、それはいわゆる「功徳・善業」であり、それが「取引」として成立するにあたっては、輪廻転生が「事実」として受け入れられているという上座部圏の文化的な条件が背景にあるのだが、そのあたりについては以前にも書いたことがあるのでここでは繰り返さない。

いずれにせよ、上述のような思想的な条件や文化的な条件が日本社会に広く備わることは、少なくとも近い未来のうちには想定しにくい。そのことを考えると、サンガのシステムの素晴らしさをよく理解しながらも、「やっぱりこれをこのまま日本に入れるのは難しいなあ」と、今日も思ってしまうわけである。


※今日のおまけ写真は、仏歯の収められた塔。ミャンマーでは、ブッダ関係のものは全てこのように徹底的に飾りつけます。

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