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「何が悪い」の悪いところ

 昨夜は予告どおりの限定ツイキャス。存在しない壁を作れとか、存在しているそれの囲っている範囲を敢えて狭めろということではなくて、実は既に形成されている壁が包摂する範囲をむしろ広げようということが話の肝だった。他にも、ずっと語りたかったことをきちんと言語化して述べることができて、なかなかよかったと思う。

(※一時的に視聴不可能でしたが、現在は録画も限定公開されています)


 「~で何が悪い」系の主張というのはツイッターなどでもしばしば目にすることがあって、これは当該の議論において自明の前提と目されている価値基準を改めて問いの対象として、話のちゃぶ台をひっくり返してしまうには便利だから、使いたい人は使えばよい便利な論法ではあるのだが、個人的にはちょっと複雑な思いも抱かないでもない。というのも、この論法が有効に機能する場合というのは、基本的にそれが依拠している(しばしば暗黙の)「自明の前提」が別に存在する時なのであって、そのことに気がつける人から、「そりゃあんたが私に『自分にとっての自明の前提』を押しつけようとしているのが悪いんだよ」と返されてしまったら、それで終わりの論法でもあるからである。

 たとえば、「バカで何が悪い」と主張する場合について考えてみると、この開き直りが有効に機能するのは、「バカであっても別に悪くない」という文脈を前提にした時であることは当然である。もちろん、そういう文脈は一般的には十分に成立することが可能だが、当該の人が「バカ」であることによって実際に負担を被っている人からすれば、その人が「バカ」であることは普通に「悪い」ので、そのように文脈を都合よく移動させて自分が他者にかけている負担を見えないようにする行為自体も、まさに「悪い」ということになる。

 ここで述べたかったのは、「だからバカはやっぱり悪いのだ」ということでは、もちろんない。誰かが「バカ」であるかどうかという判定も、文脈依存的なものであるのは当然のことだからである。言いたかったのは、「~で何が悪い」という論法は、既に「善悪」という基準が持ち込まれている以上、(しばしばそう思いなされがちなように)価値基準を「相対化」しているわけではなくて、単に発言者にとって都合のよい一定の価値基準を新たに導入し、その承認を他者に一方的に迫ろうとする試みに過ぎないということである。したがって、そのことに気づいて適切に指摘もできる人に対しては、こういう雑な開き直りでは手も足も出ないということになってしまう。

 実際には、上記のことに気づく人というのはあんがい少ないし、また「~で何が悪い」系の主張をする人たちは、たいてい自身の(反論されにくい)属性や文脈との併せ技でこれを述べるのが常なので、この論法が現実的には相手を黙らせるために非常に有効であることは変わらないだろう。だから、既述のとおり使いたい人は使えばいいのだが、私はそれを見るたびにここまで説明してきたようなややこしいことを考えてしまうので、まあ無駄なことながらちょっとメモだけでもしておこうと、こんなエントリを書いてみたような次第なのであった。


※以下の有料エリアには、過去のツイキャス放送録画の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。また、この視聴パスは、6月分の限定ツイキャスを視聴される際の合言葉にもなります。

今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の6本です。

 2019年5月4日
 2019年5月29日 part1
 2019年5月29日 part2
 2019年5月30日 part1(さむさんとの対談)
 2019年5月30日 part2
 2019年5月30日 part3

 6月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の6本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。

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