『感じて、ゆるす仏教』の「はじめに」を全文公開します

 タイトルどおりですが、5月25日に発刊となります藤田一照師との共著、『感じて、ゆるす仏教』(KADOKAWA)の「はじめに」を、版元さんの了解のもとに公開いたします。

 この「はじめに」は、もちろん私の書いたものですが(「あとがき」が藤田師の担当)、本書の中心的なテーマについて冒頭に語った上で、それぞれの章の内容や、対談の全体を貫くトーンについても言及しており、こちらを読んでいただければ、本書全体の雰囲気もある程度は、理解していただけるかと思います。

 おそらく、3~5分程度の時間で読み終われる文章かと思いますので、是非ご一読いただいて、もしご関心を抱かれたならば、『感じて、ゆるす仏教』(https://amzn.to/2KSuOzg)のほうも、手にとっていただければと思います。


——以下、「はじめに」本文——


 幼い頃には、死ぬことについてよく考えました。「人は死ぬ」ということをはじめて意識したのが何歳の時であったのかは、よく覚えていないのですが、とにかく物心がついた時分には私はそのことを知っていて、それ以降は、子供時代を通じて、常にそのことが心にかかっていた。

 これは印象的な記憶なのですが、たしか五歳くらいの頃、子供向けの宇宙に関する解説本を読んだことがありました。そこには、「太陽は数十億年後には膨張して赤色巨星となり、地球はそこに飲み込まれて消滅する」と書いてあった。幼い私は、そのことを知っていたく心配し、「これはたいへんな事態だ。今後は地球の滅亡を避けるために尽力しなければならない」と、ひそかに決意を固めました。いまから考えてみると、数十億年後のことを私が真剣に悩んだところで仕方がないのですが、とにかくその当時は、それが自身の人生にとって重大な問題であると感じられたわけです。

 そのようにして子供のころに死について考えたことも、数十億年後の地球の滅亡を本気で心配したことも、現在の私の言葉で表現すれば、おそらくは「無限を思い得る有限な私自身」を、どうしてよいのかわからないという、その不安というか、ある意味での「居心地の悪さ」からきたことではないかと思います。

 死というのは、ある種の無限です。私たちは、この世界に生まれて以来、常に様々な属性による限定を受けている。たとえば、日本人であるとか、男性であるとか、手の甲にほくろがあるとか、貝類が嫌いだとか、そういった諸性質によってです。

 しかし、死はそうした諸性質による限定を奪い去り、「存在」という最低限のカテゴリーへの帰属も断ち切って、私たちを端的な「無」に還すものであるように見える。そして、その事情は、卑小な私たちにとっては悠久の時を存在し続けるように思われる、地球や太陽や、あるいはひょっとしたら宇宙それ自体にとっても、同じであるのかもしれない。

 個的な存在という有限と、死という無限との対比について、小さな頭で稚拙ながら考えた時に、私は死を恐れるというよりも、そのような両者の観念が私の中で同居し得るということにどうしようもない「居心地の悪さ」を感じて、だからせめて想像の中だけでも無限のことを忘れてしまうために、数十億年後の太陽から、地球を守ろうとしたのだと思います。

 たぶんそんなことばかり考えていたせいでしょうが、私は大学の学部では哲学を専攻し、大学院では仏教に興味を持ってインド哲学仏教学科に進学し、そして最終的にはテクストに書かれていることを自ら経験して知るために、テーラワーダ(上座部)仏教が実践されているミャンマーにまで渡航することになりました。

 ミャンマーでは瞑想の実践を中心として多くのことを学ぶことができ、おかげさまで、渡航前に「これだけはどうしても片付けなければ済まない」と思い定めていた問題に関しては、個人的な解決を得ることができました。それ以降は、私自身の実存的な関心として生死の問題に悩むことは、もうありません。

 ただ、自分にとっての生死の問題(己の中の有限と無限の問題)に、いちおうのけりがついたとしても、その上でこの有限の生をどのように生きるべきかという問題は残ります。そして、有限の生とは同じく有限を生きる他者との関係の中にあるものですから、これは自分の中でぐるぐると思考を廻らせているだけではどうにもなりません。ここはやはり、信頼できる先達に教えを乞うべきである。

 本書の企画は、私がそんな意図から、曹洞宗国際センター所長である藤田一照さんに、対談のご提案をしたことからはじまりました。一照さんは、私が深く関わった仏教の世界で、禅僧として日本のみならずアメリカを中心とした世界中で長い修行と指導の経験を積まれており、また家庭においては夫・父親として、またその他の人々に対しては何よりも「よき友人(善友)」として愛され慕われているという、まさに「人生の達人」の見本のような方です。私自身が個人的に、そうした一照さんの人格にミャンマーへの渡航前から接していて、深く感銘を受けていたところでもありましたから、こういう内容で対談をお願いするなら、お相手は一照さん以外にあり得ないと思いました。

 対談のテーマを「感じて、ゆるす仏教」と設定したのは、これが一照さんの語られる仏教の最新かつ中心的なコンセプトであることによりますが、また同時に、この魅力的な仏教のあり方について語ることが、「無限を思いながら有限を生きること」という、私や、あるいはひょっとしたら読者の皆様にとっての普遍的な問題にも、そのまま開かれていきそうに思えたからでもあります。

 その予感は現実のものとなり、結果として、本書は「仏教を素材として人生を語る」ようなものではなくて、「仏教について徹底的に語り合うことが、そのまま人生を問う思索の交換になっている」ような対話の記録となりました。これはひとえに、長年の経験によって培われた話者としての一照さんの技量が、卓越していることによるものです。

 本書の内容は、全体で三つの章に分けられています。第一章では、「感じて、ゆるすの誕生論」と題しまして、一照さんがかつての「ガンバリズム」の修行僧時代から、現在の「感じて、ゆるす」のモードへとシフトされた経緯について、とくに結婚して家庭を持ったことがそれに与えた影響にフォーカスしつつ、詳細にお話を伺いました。僧侶の方の家庭生活と、それが修行に与えた影響というのは、一般に語られることの少ない話ですから、その意味で本章は、とくに現代において増えつつある、家庭生活を営みながら坐禅や瞑想を実践される方々に対して、貴重な参考意見を提供するものだと思います。

 続いて第二章では、「感じて、ゆるすの方法論」と題しまして、一照さんの「感じて、ゆるす仏教」の具体的な方法について、考えられる異論との対照も行いつつ、より深く検討を進めました。実は本章で論じられているような問題は、過去の仏教史の中でも幾度も繰り返し議論の対象となってきたことなのですが、仏教に詳しい方にはその現代的な変奏の一つとして、そしてそうでない方には実践的な仏教にまつわる普遍的な問題への入門として、いずれにせよ興味深くお読みいただける内容かと思います。

 最後の第三章では、「感じて、ゆるすの人生論」と題しまして、ここまで検討されてきた「感じて、ゆるす仏教」の修養が、仏教の範囲内のみならず、人生一般においてどのような「表現」を得ることになるのかという、本書の根源的な問題について、様々な方面からのアプローチで明らかにすることを試みています。その中には、たとえば「美と創造」に関する問題も含まれており、クリエイティブな作業(もちろん、人生それ自体が「クリエイティブな行為の連続」そのものなのですが)に携わりながら仏教にも関心を持たれている方々にとっては、本章の議論がとくに刺激的に感じられるかもしれません。

 それにしても、この「はじめに」を書くにあたって、改めて全文を読み返しながら思うのですが、よくも現代の高僧(ご本人はこう言われることを嫌がるでしょうが、客観的に見ればそう言うしかありません)に向かって、このように正面から遠慮会釈ない突っ込みをやるものだなあと、我ながら呆れ返ってしまいます。私が本書で一照さんにお訊きしていることは、用語や概念の上では仏教史を踏まえて様々に修飾されてはいますが、その本質としては、「それって本当にできるの?」「それができたら何がすごいの?」「その王様は本当に裸じゃないの?」という、子供目線の素朴な問いに過ぎません。そうした、ある意味では稚拙な私の問いに対して、その全てに我慢強く、また丁寧に答えを返してくださった一照さんの懐の深さと器の大きさに対しては、ただただ頭を垂れるしかありません。

 この対談を構想する一つのきっかけとなり、本文中でも言及されている一照さん配信の Podcastには、「仏教で人生はもっと面白い」というタイトルがついています。この言葉のとおり、仏教を実践し、それについて語り、そして何よりもそのヴィジョンを抱きながら私たちにとっての現実を生ききることが、とにかく人生を面白くしてしまうのだということを、できれば本書の対話を通じて、読者の皆様がそれぞれに感じ取られることを願っています。


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