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光に向かう闇属性

ゴータマ・ブッダが、「世の中には四種類の人がいる」とパセーナディ王に語った、有名な経典がある。四種類とは、「闇から闇に向かう者、闇から光に向かう者、光から闇に向かう者、光から光に向かう者」である。

「闇から闇に向かう者(tamo-tamaparāyano)」というのは一般的な邦訳だが、これは直訳すれば「闇であって、闇に向かう者」ということなので、これを少し現代的・厨二病的に「闇に向かう闇属性の者」としてもよいかもしれない。すると同様に他の三つは、「光に向かう闇属性の者」、「闇に向かう光属性の者」、「光に向かう光属性の者」ということになる。

闇属性の人(tamo)というのは、経典の本文によれば、身分が低いだとか貧乏だとか、あるいは容姿が醜いとか障害があるとか、そのようにとにかく生まれつきの条件に何かしらの問題を抱えている人である。そういう人が、その辛さに身を任せて悪業を積み重ねると、彼(女)は「闇に向かう者(tamaparāyano)」になってしまうわけだ。

光属性の人(joti)というのは、もちろん上記の逆である。身分が高かったり容姿端麗だったり、あるいは金持ちだったりして、生まれつきの条件に恵まれている人のことだ。そういう人が、恵まれた条件にしたがって素直に善業を積み重ねると、彼(女)は「光に向かう者(jotiparāyano)」になる。

こうした「光属性/闇属性」の区分は、いまでもおそらく有効だろう。現代日本には身分はない(ことになっている)が、金銭や容姿に関する生まれつきの条件によって、人生が大きく左右されるのは古代インドと同じである。あるいは、現代社会の状況に合わせて、この属性決定の条件に、生育過程における家族や異性関係でのトラウマなどを、加えてもよいかもしれない。

ここ数日のエントリでは、仏教の根本的な立場が、「外的な諸条件とは一切関係なしに、人は幸福であることが可能である」ということだと強調してきたが、おそらく闇属性の人にとっては、これはあまり説得力のない主張だろう。「外的な諸条件」によってもたらされる「現実」から、日々リアルな苦痛を受けているので、そこから離れたところにある「幸福」などというものに、全く現実味が感じられないからである。

とくに、光属性の人から「見た目とか金銭の多寡は、あなたの幸福と何の関係もありませんよ」なんて言われたら、闇属性の人間としては、マシンガンを乱射することも辞さない気分になったとしても致し方ない。

その点、ゴータマ・ブッダの教え方は、まずは「人生は苦だ」と明確に認めた上で、その苦の原因と、そこから抜け出す方法を語っているから、これは闇属性の人にも多少の説得力はもつかもしれない。「ありのままでいい」とか「作為は要らない」という言い方も決して嘘ではないのだが、それが通用するのはたぶん主に光属性の人たちに対してであって、闇属性の人たちに対しては、「現状は苦なので、そこから解放されるために頑張ろう」と言うほうが、ずっとリアルに感じられるだろうからである。


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