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「ありのままの私」という呪縛――「ありのまま」と関わるための「もう一つの道」について

 もう数日前のことになりますが、テレビ番組の影響などもあって、またツイッターで「ありのまま」が話題になったようです。

 私自身は、「如実知見(実の如く知り見ること)」を説く仏教の勉強を長くやっていたこともあって、「ありのまま」を認識しようとすること自体には(その事態の内実について丁寧に問う必要性は感じるにせよ)決して否定的な立場ではないのですが、こうした日常会話のレベルで語られる「ありのまま」に関しては、しばしば違和感を覚えることもあります。というのも、こうした文脈における「ありのまま」は、たいていの場合「ありのままの私」という観念と紐付けられており、それを称揚する場合であれ抑圧する場合であれ、いずれにせよ「ありのままの私」というもの自体は、存在することが前提となって話が進むことが多いからです。

 「ありのままの私」という観念が、これほど多くの人々に好まれる話題となる背景には、それを表出(もしくは、抑圧)することによって、「人生をより苦しみが少なく、幸福なものにしたい」という、それ自体は人間にとって当たり前の願望があるものと推測されます。

 ただ、個人的な考えを申し上げれば、この「ありのままの私」という観念は、「人生をより苦しみが少なく、幸福なものにする」ためにはしばしば障害になるというか、最近流行りの言葉を使って言えば、むしろ「呪い」に近いものとして機能することも多々あるように、私には思われます。

 本エントリは、そのように「ありのままの私」という観念が「苦しみを少なくして、幸福に生きたい」と願う人々に対してむしろ呪縛として機能することが多々あること、そしてその呪縛から脱け出すにはいかなる道があるのかということについて、主には仏教の理論と実践を参照しつつ、私見を述べるものです。これまで著書等では語っていなかったエピソードなども含めて叙述するため、有料記事となります。

 先に結論だけ書いておくと、私が本稿で示そうとするのは、「ありのまま」を見ることによって「ありのままの私」という呪縛から離れるという道です。これを読んだだけで、私の言いたいことがもうわかったという人は、このエントリを読まれる必要はないかと思います。逆に、「それはいったいどういうことだろう?」と興味を持たれた方々にとっては、本稿を購読する価値があるかもしれません。

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