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悪気のない曖昧さ

ミャンマーの床屋に初挑戦してみたら、「坊主にしたいわけではない」と言ったのだけど、切る余地があまりなかったせいか、結局クシを使いながらバリカンされて、少し長めの坊主にされてしまった。やはり、もう少し我慢してから行くべきだったのかもしれない。まあ、明日は僧侶の方にお会いする予定なので、中途半端に見苦しい髪型であるよりはいいだろう(O_O)

行ったのが初めての場所だったので、事前に周囲の人に場所を確認したのだが、三人に訊いて、言うことが三人とも違ったので参ってしまった。結局、最後に教えてくれた人の答えがいちばん正しかったのだが、もちろん最初の二人も、悪気があって嘘を教えていたわけではない。ただ、目の前にいる人(私)が困っているようだったので、曖昧に覚えていることを、親切に語ってくれただけなのである。こういうことはインドなどではよくあるようだが、ミャンマーでも普通にあって、だからミャンマーで人に訊いて移動する時には、複数人に確認して大体の方向を把握した上で、近づいたらまたそのへんの人に質問するのが、いちばん確実な方法である。

この種のおおらかな曖昧さは、南国特有のものであるなあとしみじみ思う。日本でこうしたことがあまりないのは、曖昧にしか知らない人は、「知らない」ときちんと言ってくれるからだし、私も含めた多くの日本人は、そのほうが「親切」であると感じる。だが、こちらの人たちは曖昧でもとりあえず質問には答えて、その場で互いにいい雰囲気になれることのほうを「親切」であると(おそらくは)考えている。つまり、人間関係における優先事項が異なるのである。

そして、これにはひょっとしたら、気候や風土も関係しているのかもしれない。例えば最初に教えてくれた人の指示どおりに向かったら、全く逆方向に行くことになっていたが、ミャンマーであれば、それで少々時間をロスしても、まあ暖かい国であるし、致命的な事態にはとくにならない。だが、北の寒い国で間違った道案内をして人を逆方向に行かせたら、昔の自然状況であれば、致命的な事態になるかもしれない。

この、「少々正確さを欠いていても、致命的な事態になることは基本的にない」という自然条件は、インド文化圏の人々のキャラクターに、強い影響を与えているように感じることはしばしばある。もちろん、現在の彼らの性格が形成されるには様々な要因が作用してきただろうし、それだけが原因ということにはならないのは当然だが、生きるの死ぬのという事態にはなかなかならないという自然の恵みが、彼らの「おおらかさ」の基底にあって、その条件の一つを為しているだろうことは、やはり確かであるように思える。

ミャンマーはこういうお国柄だから、日本的な「契約」の感覚でもって彼らと約束を取り交わして、それでビジネスをやろうとしたりすると、最初はものすごい苦労をしたりして、それでノイローゼになったりする人もいるらしい。言葉の厳密な履行が要求されないのはお互い様なので、慣れてしまえば楽な部分もあったりするのだが、ビジネスだとそれで全てを済ませるわけにもいかないから、そういう目的でこちらに来ている人たちには、大変な思いをしている人たちも、おそらく多いだろうと思う。

もちろん、彼らがそのようであるのは、上述したように悪気があってのことではないので、時間をかければ(私たちにとっての)「改善」をしてもらうことは可能である。このあたりはいわゆる「国民性」の問題なので、コミュニケーションを円滑にするためには、粘り強く交渉をしてゆくしかないのだろう。



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