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木曜日にしたい話

 しばらく前に、とくに死ぬ予定はないのだが、毎朝死ぬことについて考えているという話を書いたのだが、そういうモードで生きているせいもあってか、最近はどうも「本質的な話に達する前の探り合い」とか、「ある特定の話題について議論する体で行われる、人間関係のパワーバランスを調整するためのパフォーマンス」といったものが駄目になった。そういうものにも、それなりの意義と必要性があるという立場から話をすることだってもちろんできるのだが、それはそれとして、自分にはそういうものに関わっている時間がないなと、強く感じるようになったのである。

 ただ、もちろんどんな人間が聴いているのかわからない公共の場で語る時には、聴き手それぞれの趣味嗜好や、いわゆる「地雷」もわからないし、ある人にとっては適切な語り方であっても、別の人に対してはそうではないということも当然ある(瞑想実践の分野では、とくにそういうことは非常に多い)。ゆえに、そういう場においては繊細な(だからこそしばしば重要な)話題にはふれず、世の中的にこれなら文句はつけられないというコードにしたがったナラティブを用いて語ること、即ち、以前のエントリで述べた「造花」の語り方をしておくのが無難だということになる。

 だが、冒頭に述べたように私はできれば「探り合い」や「パワーバランス調整のためのパフォーマンス」のコストをカットしていきたいと思っているので、その場合には、さきほど引いたエントリ内でも述べたように、そういう語り方を普通にしても構わないようなコミュニティを探すか、自分で作るしかないということになるだろう。

 現在の流行りとしては、そういうコミュニティならば「サロン」ということになるのかもしれないが、別にそれも悪いとは言わないけれども、いまツイッターで言われているような意味でのそれに関しては、個人的にはあまりピンとこない。どちらかと言えば、漱石の木曜会のようなもののほうが、私にはしっくりくる。もちろん、木曜会も原義としてのサロンには近いものだろうが、いま話題のそれのように、漱石が参加者から会費を徴収していたという話は聞かない。
(※いちおう繰り返しておくが、別に会費を徴収するサロンがひとしなみに「悪い」とは思わない)

 いずれにせよ、SNSなどの発達によって、単なる庶民の発言であっても、原理的には世界中に届き得る現状にあっては、公の場において私人が政治家に準ずるような「コード」に沿った発言を求められるようになってしまうのも、ある程度は仕方のない流れではあるだろう。ただ、そういう傾向が進めば進むほど、同時にそういうスタイルではない話ができる場を求める需要も増大するはずで、そうなると、クローズドな「サロン」のようなコミュニティは、これからますます増えていくことになると思う。

 そしてひょっとしたら、それはたとえば中国の幇会のような、単なる言説を交換するコミュニティであるにとどまらず、成員の互助を行うような組織へと発展してゆくこともあるかもしれない。そんなことを、ダークなウェブの人たちと話しながら、考えてしまった日なのであった。


※以下の有料エリアには、先月のツイキャス放送録画の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の四本です。

 2018年11月11日
 2018年11月16日(さむさんとの対談)
 2018年11月17日(長尾俊哉さんとの対談)
 2018年11月26日(沼田牧師との対談)

 二月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の四本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。

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ニー仏

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ニー仏

だいたい「もにょっとしたところ」の言語化をやっています。それと瞑想とか。noteは一部記事は有料、全文無料記事の場合は、ツイキャスでの過去放送視聴パスを、投銭に対する「おまけ」としてお知らせする形式で運営しています。
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