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坐禅と習禅

藤田一照老師(昨日の禅師とは別人)の『現代坐禅講義』を、たまたま入手したので一読。仏教の瞑想、もしくは只管打坐に関する、きわめてまっとうな解説書であると思った。

坐禅、もしくは仏教の瞑想の本筋が、ここではない「どこかに至る」ことや、現在の自分とは違う「何かになる」ことを目指すのではなくて、何もせず「くつろいで」いて、「自分自身に落ち着いていられる」ことを本懐とするものであることは、それなりに実践をやってきた人々にとっては全く自然に理解されることではあるのだけど、それが本書のように、現代の言葉でわかりやすく正面から、丁寧に解説されることは少なかったように思う。

これまで坐禅や仏教の瞑想といえば、業界内の文脈とジャーゴンを知っていないと全く理解できないような、老師たちの秘教的な語りによって紹介されるか、そうでなければ世俗的な関心に迎合する形で、坐禅や瞑想をすると「頭がよくなる」とか「健康になる」とか「人間関係が上手くいく」とか、その種の「ご利益」を示して歓心を買おうとするような解説が多かった。

だが、『現代坐禅講義』では、「坐禅は人間のためにはなんにもなりませんよ」とはっきり言ってしまった上で、それでも坐禅をする意味があるとすれば、それは何であるのか。そして、何かを目指すわけではなく、「ちからをもいれず、こころをもつひやさず」(『正法眼蔵』)にあることが肝要だというのに、それでも坐禅を「する」のであれば、それはどのようなものであればよいのかということを、筆者の30年の求道の経験から、己の言葉で丁寧に解き明かしている。武道やヨーガ、野口体操やアレクサンダー・テクニークなどの知見を豊富に取り入れつつ、およそ「仏教書らしくない」語彙と言葉遣いによって坐禅が語られているのも本書の特徴だ。

ただ、本書では例えばテーラワーダのアーナーパーナ(呼吸瞑想)や四念処の瞑想、あるいは密教のマントラや曼荼羅を対象とする瞑想などを、特定の対象に集中し、それによって得られる特殊な心理状態に習熟することを目標として、そこへと自分を変化させてゆくことを目指すという意味で「習禅」と分類しており、それに対して「只管打坐」の道元禅は、そのような所定の目標を達成しようとするようなものではなく、特別な行法を意識で「為そう」とするものでもなくて、ただ謙虚にそこに「在ろう」とする無為・無我の行法なのであり、それが(習禅ではない)「坐禅」であるとしている。

著者はこの「習禅」と「坐禅」のあいだに差異はあっても優劣はないとしているが、同時に菩提樹下で成道した際に釈尊が行ったのは「習禅」ではなくて「坐禅」であるともしているので、これは他宗派の人々からすれば、おそらくは異論のあるところであろうと思う。

例えば、テーラワーダの瞑想指導者であれば、瞑想が「どこかに至ろう」としたり「何かになろう」としたりするものではなくて、いま・ここにただ「在ろう」とすることだ、という話には、とくに反対しないというか、むしろ積極的に賛成するだろう。実際、拙訳のウ・ジョーティカ『自由への旅』でも、ウィパッサナー瞑想の解説をするにあたっていちばん最初に言われているのが、「瞑想というのは、これだけやったからこれだけ得られるという取引(bargain)ではない。瞑想と取引は、決して相容れないものだ」ということである。

その上で、呼吸という特定の対象をとって、そのメソッドに習熟してゆく瞑想をするのだから、それは造作(はからい)を含んだ「習禅」であって「坐禅」にはならない、と指摘されれば、テーラワーダの指導者は以下のように応ずるだろう。

「なるほど、たしかに私たちはいま・ここにただ『在る』ことを実現するために、呼吸を手がかりとして使います。しかし、それすら造作だと言うのであれば、そもそも瞑想も坐禅も何もしないのが最上ということになるのではありませんか。私たちは日常生活において、放っておけばいま・ここから離れてしまうような心身の習慣を身に付けてしまっている。その習慣をやめて、いま・ここにただ『在る』ことを再び思い出すために、私たちはわざわざ瞑想や坐禅をするのでしょう? 呼吸を手がかりとすることは、足を怪我している人のための松葉杖のようなものですよ。健康な人にとっては、もちろん歩くのにも走るのにも、松葉杖は邪魔でしょうね。でも、怪我をしていて普通に歩けない人に向かって、『松葉杖なんて本来は不要なのだ。もともと君は普通に歩けたはずなのだから、松葉杖などに頼るのはやめて、いますぐ自分で立ちなさい、歩きなさい』と要求するのは、無茶というものではありませんか?

実際、曹洞禅でも『正身端座』という『作為』はしていますね。もし本当に『人為』が全く不必要だというのであれば、姿勢を正す必要だってないはずです。例えば、テーラワーダなら坐法をうるさく指示することはあまりないし、その上で、瞑想というのを坐っている時だけに行うものだと考えるのではなくて、行住坐臥の全てを瞑想的に行うことを理想としている。私たちは呼吸について『造作』する代わりに、坐法や威儀を細かく指定するという『造作』については、しないでいるというわけです。

ええ、もちろんわかっています。『正身端座』は、『正しいことをする』ために行っている(造作している)わけではなくて、『正しくないことをやめることで、正しいことが自然に起こる』のを待つためにそうしているのですよね。だから『現代坐禅講義』でも、『正しい』姿勢を指導されて、それを無理に『しよう(作ろう)』とすることには意味がないと、繰り返し言われている。『正身端座』は、『正しくないことをやめて、正しいことが自然に起こるのを待つ』ための、あくまで手がかりなのだろうと思います。

ウィパッサナー瞑想における呼吸も、この『正身端座』と同じですよ。それはあくまで、『正しいことが起こるのを待つ』ために、『正しくないことをやめる』ための手がかりにすぎない。だから、アーナーパーナでは『正しい呼吸』を身体に命ずることはしないし、ありのままの呼吸をただ観察し続けて、そして最終的には呼吸という対象すら手放してしまう。あとは呼吸に限らず、ただ生成消滅する現象の中に、一体となって『在る』だけです。それがゴータマ・ブッダの瞑想だと私たちは考えていますし、それは『習禅』ではなくて、むしろ言われている『坐禅』そのものではないでしょうか」

…と、テーラワーダの瞑想指導者であれば、大体こういうことを言うだろう。私はあまり詳しくないが、密教の瞑想者でも、自分たちのやっていることが単に「習禅」であってゴータマ・ブッダの「坐禅」ではないという議論には、同様に決して賛成しないのではないか。

ただ、上記はテーラワーダの瞑想指導者でも、かなり様々な文脈を理解した上で指導や実践を行っている「理想的な」人の回答を想定したもので、全てのテーラワーダの瞑想者が、きちんと「坐禅」をやっているわけではない。本書で指摘されているように、ただメソッドに習熟することを目的とした、「習禅」をひたすらやっている瞑想者たちも、おそらくは多く存在するだろう。

だが、そうは言っても、「坐禅」ではなくて「習禅」をやってしまっている瞑想者も存在するというこの事情は、どこか特定の宗派だけの特殊な状況ではなくて、(たぶん)曹洞宗も含んだ仏教の諸宗派のほとんど全てにおいて共通する問題なのではないか。要するに、やっていることが「習禅」であるか「坐禅」であるかというのは、メソッドの問題ではなくて、個々の瞑想者の態度や理解度の問題ではなかろうかということである。

『現代坐禅講義』を読みながら、そんなことを考えた。長くなりすぎたので、今日はこのへんにしておくが、他にも本書から啓発された点は多くある。現代において瞑想という実践について考える人であれば、読んでおいて決して損はない本だ。甲種おすすめ。


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