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生産性以外の基準

 我ながら中二病っぽいと思うのだが、最近は朝いつも目覚めるたびに、「さあ今日も死ぬ準備をするか」と、なんとなく思うのが習慣のようになっている。

 「死ぬ準備」といっても、近いうちに自殺する予定があるとか、そういった話ではもちろんない。ただ、自分が百年後には確実に生きてはいないし、ひょっとしたら数年後や、ことによったら数日後にも、死んでしまっているかもしれないということを、ちょっと意識して生活するというだけのことである。

 こういうことを考えるようになったのは、昔から名前を知っていた、比較的若い著名人が、このところ相次いで亡くなったことにも関係があるだろうと思う。さくらももこさんの「ちびまる子ちゃん」は、もちろん子供の頃にはずっと見ていたし、山本KID徳郁さんは、私より少し歳上なだけである。二人とも、還暦すら遠い年齢で亡くなってしまったし、私がそうならないという保証ももちろんないのだ。

 さくらももこさんに関しては、アニメが放映されていたせいか、「ちびまる子ちゃん」のりぼんコミックスが家にあって、その漫画本には「おまけ」として、ところどころに一頁がびっしり手書き文字で埋められたエッセイが挿入されていたのだけど、その文章が本当にやばいくらいに上手くて、子供のくせに偉そうだった私は、「この人はすごいな」と、感心していたおぼえがある。だから、しばらくして彼女が『もものかんづめ』という初のエッセイ集を出すことになった時にも、「まあ当然そうなるよね」と(またも偉そうに)思いながら、すぐにお小遣いで買いに行ったのだった。

 そんなわけで、私はさくらももこさんの初期のエッセイはだいたい読んでいたから、彼女が相当な「健康マニア」であることも知っていたし、ゆえに突然の訃報にはかなり驚いてしまった。健康のためにはと大嫌いな納豆まで食べることにしたエピソードなども思い出して、「無常・苦・無我とはこういうことか」と、改めて深く考えさせられることにもなった。

 最近「死ぬ準備」のようなことを、特段のはっきりした健康上の問題もないのによく考えていることには、そうした個人的にインパクトのある死をいくつか見たことが関わっているわけだけれども、ただ、そのように考えることで、何か特別なことを考えたりはじめたりしているのかというと、必ずしもそういうわけではない。いつもどおり、FGOの周回は続けているし、とくに「生産性」はないツイッターや noteへの書き込みも、こうして以前と変わらずやっている。

 ウ・ジョーティカ師がマラリアで生命の危機に瀕した際のことを振り返って、「自分はこれまで人生の様々なことについて成功してきたけれども、そうしたことには何も意味がなかった。自分がやってきたことで、ただ一つ意味があると感じられたことは瞑想だけだった」と語られているけれども、たしかに死んでしまったら「生産性」などという概念にはそれこそ意味がないのだから、死がリアルになった時に、「それ以外の何か」のことを考える人は、おそらくそれなりにいるのだろうと思う。

 私自身は、毎朝「生産性以外の基準」から、「これは今日やるべきことだろうか」と一日の行動を選択しながら生きるのは、わりと心地よいものだと感じているので、これからもしばらくは、この中二病っぽい習慣が、なんとなく続いていきそうである。


※以下の有料エリアには、先月のツイキャス放送録画(私が単独で話したもの)の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の四本です。

 2018年9月16日(1)
 2018年9月16日(2)
 2018年9月16日(3)
 2018年9月23日
 2018年9月30日

 十月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の五本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。

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