HIT! 映画『ロボコップ』とキリスト教

No.016
表紙写真・著作者 Jesse Clockwork



『ロボコップ特別編』をDVDでレンタルして観ました。

近未来のアメリカを舞台に、欲望と権力にまみれた、救いようのない人間の愚かさが描かれています。堪え難い暴力、暴力、暴力の連鎖...

僕が過去に観た「残酷な映画」の中でも、ワースト1に上げて良いかもしれない。とにかく全編に渡って強烈なバイオレンスシーンがある、そりゃもう見事なものです。子供の頃にこの映画を初めて観て「アメリカって本当に恐ろしい国なんだな…」と心底感じました。

では何故、ここまで残酷な映画を作る必要があったのでしょう?

主人公ロボコップは、悪の黒幕が、己を製造した巨大企業オムニ社のジョーンズであることを突き止めます。ジョーンズを逮捕しにいくのですが、「会社の人間には手を出す事が出来ない」とプログラムされているために逮捕に失敗。逆に反逆者扱いされて、かつて仲間だった警察達に反撃されます。

地下駐車場に追いつめられて、四方八方から銃撃を食らうロボコップ。

ふと、かつて悪党から銃撃を受けて惨殺された記憶がフラッシュバックします。サイボーグである彼からすると、もはや悪党も警察も同類なのです。人間という存在自体が、そもそもの「」であることに気づきます。

逃げ惑うロボコップはフランケンシュタインの怪物のようであり、或いは刑罰を受けるイエス・キリストの受難にも見えます。どちらであれ、この痛ましいシーンは人間の「原罪」を描いているのだと僕は解釈しました。人間は生まれながらにして否応無しに罪を背負った者である、というキリスト教の教えです。

ロボコップが人間の「罪」を全て引き受けている…

西洋人の心情理解として考えると、その痛ましい「身代わりの姿」に、鑑賞者は深く感動しているのではないかと思いました。

ロボコップをここまで残酷な映画として作らなければいけなかった理由は、恐らくそこにあったのでしょう。このような「身代わりの美学」は多くのコミックや映画などでも描かれていますが、やはりその原点はキリストにあるように思います。



<余談>

ところで、実はイエスの「受難」に関することは聖書には一行も書いていないのだそうです。すべては修道女アンナの妄想で書かれたお話だったという事を最近知りました。

この場合、現代的に考えると、「受難」ってアンナによる聖書の二次創作って感じになるのかな?

イエス様があんな事されて、こんな事されて…

修道女アンナがそのように興奮しながら、勝手に妄想を書き綴ったものですよね。もし中世にコミケみたいのがあって、アンナがブース出していたら、即日完売しちゃうほど売れっ子の作家になっていたのかもしれません。二次創作で書いたものが原作扱いされるまでになったわけですから、凄い話です。女性の想像力の凄さを、時代を超えて感じました。

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笹山直規

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