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ぼくのかんがえた『沈黙』について

『沈黙』とは「声」をめぐる映画です。正確に言うなら、ここでいう「声」とは「神の声」のことであり、この視点から見れば、この映画は二種類の「神の声」を取り違えてしまうことによる悲劇であると言うことができます。二種類の「神の声」とは、「踏み絵を強制されたロドリゴが聴く神の声」と、もうひとつは「十字架に架けられたモキチが息も絶え絶えに歌う讃美歌」です。

踏み絵を強制されたロドリゴが聞く神の声は、世界のあまりの残酷さの中で狂気に陥っていくロドリゴの幻聴なんですね。つまり、神は最初から最後まで「沈黙」したままです。神の声が自分の幻聴であると知ってしまったからこそ、彼は死ぬまで、今度は彼自身が沈黙を貫くことになってしまった。彼にとって祈りとは神の声を聴こうとすることであり、それが困難であればあるほど彼の信仰は深くなるわけですが、しかし、彼は「神は沈黙する存在である」ことを決定的に知ってしまった。神父の彼が語る言葉は神の代弁であり、神が沈黙する存在であるなら、もう彼は何も言うことができません。つまり、これは神に対する絶望を描いた映画なのです。しかし、その絶望と引き換えに、彼は幻聴のもたらす狂気の世界に陥ることなく、俗世に戻ってきます。言うなれば、この映画においては「絶望」の対義語は「希望」ではありません。「絶望」の対義語は「狂気」なんです。

だから、ぼくは、何らかの希望のしるしをこの作品に安易に求めようとは決して思いません。というか、求めてはいけないのではないか。ラストの伏線回収であるロドリゴの掌の十字架の意味を考えればそれは明らかです。彼はそれを握りしめて安らかに死んでいったのではありません。日本の土俗的風土の中で、太陽信仰や偶像崇拝と結びついたキリスト教の変質を、ロドリゴもフェレイラも批判していたにも関わらず、ロドリゴ自身は最後はモキチがくれた十字架を握って死んでいきました。これは痛烈な皮肉です。キリストと日本の信徒の関係を、そのままロドリゴ自身が再現している。あのラストシーンで初めて、イコン(:)を媒介にして、キリスト:切支丹(日本の信者)=モキチ:ロドリゴという式が明らかにされるのです。そして、この式はこの作品の重層性を表していると同時に、ふたつの重要なことを示唆しています。

ひとつは、この式の両辺で西洋と日本の関係が逆転しているということです。洋の東西を問わず、結局、信仰という行為において、人間は「拝む」ための対象を必要とするのです。もちろん、キリスト教もイスラム教も、そして仏教も偶像崇拝を教義上禁止しています。しかし、わざわざ禁止する理由は、禁止しないと「ついついやっちゃう」からなんですね(それはタブーと呼ばれるもの全てに共通することであり、タブーは事象の本質を裏側から照射するのです)。つまり、それは信仰の本質に関わることなんです。何かを「拝む」ということがまず先行し、その奉仕の返礼あるいは報酬として、神によって「祈り」が聞き入れられる。ぼくたちは無意識のうちにそんなふうに刷り込まれてしまっています(それがどういう理由によるのかは非常に興味深いテーマなんですが、それはまた別の機会に)。だから、都合のいい時にだけ祈り、赦しを求めるキチジローが人間の愚かさの象徴として描かれるわけです。しかし、キチジローとて、生まれつきそんな人間であったわけではありません。弾圧によって目の前で家族を殺されるという途方もない絶望の末に彼の姿があるわけで、彼はいわば「絶望」を体現する役割も担っています。

もうひとつは、式の両辺におけるキリスト≒モキチという重層的な関係です。モキチの死がキリストの死と相同的に描かれていることからもそれは明らかなんですが、一方で、彼はキチジローの属性を全て反転させた対極的存在として描かれています。ぼくは最初に、この映画における「絶望」の対義語は「狂気」であると言いました。つまり、殉教者モキチはキチジローの対義語であり、信仰の大義のために死んでいく「狂気」の体現者なんです。そして、モキチがキリストであるとするなら、十字架にかけられ、海の波に洗われながら息も絶え絶えに歌う彼の声、実はそれが本当の「神の声」ということになります。しかし、(その時は)ロドリゴはそれに気がつきません。たぶん、彼は人生後半の沈黙の中でそれを理解するのです。しかし、その理解は彼の絶望と沈黙を深めるものでしかありえなかった。だって、彼は結局、「神の声」を聴く(理解する)ことができなかったわけですから。だからこそ彼は、モキチの十字架を握ったまま黙って死んでいくわけです。

その意味では、二人の名前がモ『キチ』と『キチ』ジローなのはきわめて示唆的で、この二人は対立概念であると同時に、同じ何かの別の側面であるということでもあります。いや、「同じ何か」という回りくどい言い方はやめましょう。「信仰」のふたつの側面です。この映画における「信仰」とは、絶望か狂気かのいずれかしかもたらさないものなのです。救いがないといえばあまりに救いがないのですが、しかし、この映画はアンチ宗教、神を否定する物語ではありません。これがこの作品の最も厄介であり難解なところなんですね。

では、この映画における「神」とは誰なのでしょうか。結論から言えば、それはスクリーンのこちら側で映画を観ているぼくたち自身のことであるとぼくは考えています。ぼくたちはこの作品を俯瞰的に、いわば神の視点で観ているのはもちろんですが、映画の残酷さに身を引き裂かれそうになりながらも、作品の内部に対して何も関与することはできません。作品の内部から見れば、沈黙している存在でしかないのです。「神」というのはそういう存在のことを指しているのではないか。そして、これが神に対する絶望の映画だとすれば、それはすなわちスクリーンのこちら側、この世界とぼくたちに対する絶望の映画であるともいえます。そして、半世紀以上も前に書かれた原作が、いま映画化されてぼくたちの前に現れる意味はそこにあるのだとぼくは思うのです。スクリーンの向こう側から、こちら側に対して突きつけられる絶望を受けて、ぼくたちは同じように絶望し、苦悩します。それは神の苦悩に似ているかもしれない。しかし、ぼくらのそれは、その深さにおいて、神と張り合えるほど本当に充分な絶望であり苦悩なのでしょうか。この一点において、天上の神の問題は、いま地上を生きるぼくたちの問題として立ち返ってくることになるのです。つまり、作品の内部における重層性の問題は、映画の内部と外部の重層性の問題としてぼくたちの眼前に現れるのです。

「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」とアドルノは言いました。どんなに美しい詩であったとしても、それはアウシュヴィッツの殺戮を生み出したものと同じ「文化」から生まれたものではないか、と。この『沈黙』は、そういう意味ではアウシュビッツや広島や長崎や南京の後の、「表現の可能性」を問う作品であるとぼくは思っています。希望とは絶望と苦悩の果てにようやく見出すことができるものであり、希望という言葉を口にするには、ぼくたちにはまだまだ絶望も苦悩も足りない。そんな資格などないのです。その証拠に、遠藤周作がこの原作を書いた半世紀前、今よりもはるかにアウシュヴィッツや広島や長崎や南京の記憶が鮮烈だったあのころに比べて、ぼくたちはこの世界の悲惨さを少しでも改善しえたでしょうか。残念ながら、ぼくたちはアドルノのいう「野蛮な文化」の中にいまだどっぷりと浸っているのだと言わざるをえません。

えーと、ぼくが『沈黙』について最も言いたいことはまあだいたいそんなところなんですが、この映画はとにかく重層的な映画なので、ほかにも語りたいことはいっぱいあります。例えば、ぼくはまだ井上筑後守と通辞について何も語っていません。この二人は「信仰」に対置される「人間的理性」の体現者でもあるわけですが、先に述べた「信仰」のメカニズムが洋の東西を問わないグローバルなものとして捉えられているのに対して、「人間的理性」は日本というローカリティに支えられているのが面白いな、とか、それをスピノザを援用して読み解くとどうなるんだろう、とかとか。書き出すときりがない。まあでも、そのへんの話は、どこかでめしでも食いながらやりましょう。キチジローの映画だから、神田神保町の「キッチンジロー」あたりでどうですかね。…なんてことを書いてるから、絶望が足りない苦悩が足りないとスコセッシ監督に厳しく叱られてるわけなんだけどさ。

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