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"人生は○○合戦"。新卒3年目を目前に「はたらく」を見つめなおす。

「はたらくとはどういうことなのか?」「なぜ人は働かなくてはいけないのか?」という問いは、就活を経験した人であれば誰しも一度は考えたことのあるのではないだろうか。学生最後の年、インターンや面接に追われる中で類に漏れず僕も考えていたが、新卒3年目が目前に迫ってきた今、ふとその”はたらく”ことの意味と意義が当時よりアップデートされてきた実感があるので備忘録的にまとめてみる。

就活中に考えていたこと。それはとにかく「社会や誰かの役に立ちたい」ということだった。自分の出来ることを通じて誰かの役に立ち、その対価としてお金を頂戴する。それが仕事であり「はたらく」ことだと。

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就活中のメモ書き。中学生の自分でも書けそうなことが堂々と書かれていて目を背けたくなるが、まずはよく言った3年前の自分!と思う。1つの正解がある問いではないし、何も間違ってはいない。ただし、実際にいち社会人としてはたらく中で、本当にこれだけがはたらくことの意義なのか?そしてその意思を持ち続けられているのか?ということを最近は考える。

以前お店でこんなことがあった。ふらっと入られたお客様がトートバッグを軽く手に取っていらしていた。普段なら「牛革の割に軽いので良ければお手に取ってみてくださいね」等とお声がけするのだが、その方はジャケットにサングラスというやや強面な印象(永田視点)で、話しかけるタイミングを躊躇していたらお客様は店内をくるっと一周してそのまま退店された。

接客という人相手の仕事ゆえ大なり小なりこの様な出来事は多々あるのだが、この時の心情としては「的外れなことをお伝えしてしまうと機嫌を損なわれるかもしれない」という思い込みから、「お客様が」というよりも、「自分が」傷つきたくない一心での行動になってしまっていた。そうすると結局そのお客様にとっては目に見える範囲の情報と実感しか持てず、自分にフィットするのかの判断材料が少なくなってしまう。前回の「愛」についてのnoteにも通ずる部分があるが、「目の前の相手のためのつもり」と表向きには思っていたとしても、掘り下げていくと実は全て「自分のため」の「仕事」になってしまっていたのだな、と感じることが増えてきた。

「はたらく」ことを通じて、お店でも全社会議でも「お客様」を主語にして考えること、というのはブランド全体で常に一貫していて、その意識が少しずつ自分の身にもなってきているなと感じる。ただ正直に言えば、「自分の人生なんだから、自分のために生きて何がダメなの?」ということは心のどこかで感じていた。

そんな自分が「はたらく」ことについて真に腹落ち出来たのは、ある本と上司の言葉との出会いだった。最近ハマっているオリラジあっちゃんのYouTube大学で偶然見つけた「夢をかなえるゾウ」という本の解説。独特な世界観の表紙やタイトルに僕の想像力が追い付かず今まで手に取ったことはなかったが、中田のあっちゃんが説明していた「はたらく」ことの意義を見てそれだ!と腹落ちした。それは、「人生は"喜ばせ合戦"である」というシンプルな考え方。イチローや松下幸之助、カーネルサンダース等ビジネスで成功者と呼ばれる方々はそれである前に「沢山の人を喜ばせてきた人たち」であるという説明はすっと心の中に入ってきた。

そして自分の上司もかつて似たようなことを言っていたと思い出す。それは「自分のために頑張るよりも、誰かや何かのために頑張る方が、結果として自分の成長に繋がると思うんだよね」という言葉。その方は常に「お客様」や「ブランド」等自分ではない誰かを主語にして、そのために自分は今何が出来るかということを考え行動する方だった。心配になるくらい「自分」は二の次だったけれど、不思議といつも笑顔で、確かにその方が「不幸そうだ」と感じたことは一度もない。

その二つの言葉は自分の中で重なり、心地よい和音を奏でた。まずは目の前のお客様のために出来るベストをつくす。一人でも多くのお客様が喜んでくださるような空間やサービスを提供をする。結果としてその経験が自分のスキルや想い出、お金になって返ってくる。3年前に考えていた「誰かの役に立つ」ということ、「喜ばせる」は似ている様で違う気がしている。「役に立つ」というマイナスをゼロにするような安心感を生むものだとすれば、そこに+αで暮らしが豊かになったり自分をより好きになれたりと、よりよい変化を生むことが出来れば「喜ばせる」ことが出来たということなのかなと感じている。

そして対価として頂いた経験や財産を使って更なる「喜び」を提供できるように行動していく。そんな循環を作り広げていくことが自分の目指したい「はたらく」なのかもしれない。その循環と連鎖が引いては次の世代のシステムを作り、その喜びを与え享受できることが当たり前な世の中になることを信じて、今は目の前の小さな「喜び」に拘っていきたいと思う。

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写真は京都の清水にある河合寛次郎記念館。行く度にお花が変わっていて「お待ちしておりました」と言われている様な気持ちになる。

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