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揺らぐ良い女、すなわち良い人間―土岐麻子『PASSION BLUE』とシティポップ3部作

ライター:inkyo

 『PASSION BLUE』によって土岐麻子の「シティポップ3部作」が締められた。1作目の『PINK』はゼミ論を書いていたときに聴いていたな……ゼミ論……。ただ心地よくてBGMにしていただけで、歌詞は全く入ってきていなかった。そういう側面もあるのがこの3部作ですね。

 ちゃんとした音楽の話はナタリーの記事(いい写真がなくてヘッダーを拝借しました)などを読んだほうが良いと思う。丸投げ。最初の曲"Passion Blue"からリズムが面白くて、「リズムから考える……」と呟いた。音楽だけでなく何もかもリズムから考えています。話が逸れそう。とにかく、音楽的なこと(?)は誰かが話してくれていることでしょう。

 私は『PASSION BLUE』を聴いて思ったことを中心に、いつも通り気持ちの部分について話そうと思う。聴いてから読んだほうがいいかも。『SAFARI』がリリースされたあたりから土岐麻子の曲を聴く頻度がすごく高くなり、ある日友人に「土岐麻子が良い女すぎる」というラインを突然送った。あれが土岐麻子のよさを本気で噛みしめたタイミングだったのだろう。


良い女の揺らぎ

 すでに「良い女」というワードが2度も登場している。「強い女」「良い人間」という言葉も同じ意味で私の中にある。女であることへの自意識を良くも悪くも強く持っているからこういう言い方をしてしまうのだと思う。女というだけで嫌な思いをすることがあるなら、見返すみたいだけど女である体を使って最高の人間になりたい。今のところ体と精神は切り離せなさそうなので、持ってしまった体でやっていくしかないんだ。「自分の身体は自分のものだし、ミニマムの不可侵なフリーダムだ」ってMars89さんも言っている。そうです。早めに変化させたり許容したりすると先にある楽しさも早めにやってくるはず。

 土岐麻子を良い女だと思っている理由は、彼女が揺らいでいるから。曲によって全然違うことを言っている。全てが常に土岐麻子の体の中にあるものたちなのではないか。『PINK』では身を切られるようなことを言われ、『SAFARI』で内省的になり、それらを経て『PASSION BLUE』で開けた印象を受けた。

 当然、作品として整えた状態でアウトプットされているものだ。実際には勢力図がその時々で変化することはあるだろう。もしかしたら3部作の流れをループし続けるのが人生かもしれない。ループしながら少しずつ何かが変わってゆく、その過程を俯瞰している自覚が最近はある。繰り返しながら、自分が自分であるための確固たる部分を強く強くしていくのだ。これを書くにあたりレビュー記事を避けていたから意図は読めないし、本質的にもどういう意図で3部作を構成したか、我々が知ることはできない。

 これだけの揺らぎを言語化してきた大人の良い女が歌う「愛してるって 想いひとつで こんなにも心が輝く」という歌詞……最高すぎるでしょ……。こういう曲を聴いたときはちょっと悲しげな曲たち全部を思い出し「悲しみを理解したうえでこういう底抜けにハッピーなことを言っているんですよね!? それってどれだけの愛が……愛が……!!!!」と思って泣いてしまう。私は真顔でうるさいことを考えながら音楽を聴きます。


シティポップとしての土岐麻子

 電子音多め、体の動くリズム、フラットな歌声、泣ける言葉。これらを並べるのは簡単かもしれないが、土岐麻子でなければならない何かがそれらを繋いでいるおかげで最高3部作になっている。最高3部作とは。その人が何をどのくらい積んできたか、そういうものは余白に表れる。人生をバイブスでやっているので見えない何かを信じがち。例えばポートレートを撮る/撮られるのもそうだ。場所、表情、撮り方が他の写真と似ていても、彼らが言葉で補完しなくても、撮る人と撮られる人の関係やそれぞれが積んできた「何か」まで全てが写ってしまう。写真なんて表現方法でいえば余白だらけなのに。

 直接的に伝えるべきことと、それを間接的に見せることのバランスが上手に取れているように思う。そのあたりをトオミヨウとはどのくらい共有しながら作っているのだろう。よくよく聴くと歌詞が刺さりまくるのに、聞き流すこともできる。昔は楽器全てが直接的に感情を表現しているバンドが好きだったけど、今はこういう無機質な側面のあるものが好きだな。この3部作ではダンスミュージック的な部分が間接的な表現を担っていて、それゆえ聞き流せるし、直接的な歌詞をもっと刺さりやすくする効果もある。楽しいのに泣ける。「のに」の部分が「泣ける」を助長させるのよ。

 無機質さ/都会(東京)の冷たさ、それらと一緒に存在する歌詞/街にいる人の感情。ふたつの側面が同居する彼女の音楽をシティポップと呼ばずして何と呼ぶ?


『PINK』

 身を切られるような1作目。アップテンポでリズムが前へと飛んでいる曲が多い。このままここに居続けてはいけない、焦燥みたいなものを感じる。場所を変えているようで立ち止まっていて、選択肢を認めようとしていて……悩んでいる気がしない? 最後の曲“Peppermint Town”で「きみ」を客観視して置いていく。まだ悩むのだろうが、大切っぽい何かは決まったようだ。

City Lights
 この曲があるだけでこのアルバムは傑作。挙げたくせに言葉で語りたいことはない。アリムラさんのmixで声ネタ的な使われ方をしていたのが好きだった。9分あたりから。→‘20171206’ by in the blue shirt

Rain Dancer

窓をたたいてた
嵐が静まり
朝がくる頃は
優しいみんなも
帰ってしまうの
ひとりになっても
私は私を救える?

 どれだけ優しいかに関わらず帰る権利がある。「朝」は色々なものに置き換えられるだろう。この曲が刺さる人は最後の問いに対してYESと答える気がして、私はそれが強がりでないものだといいなと願ってしまう。YESと言われたら他人はいよいよ願うしかできることがないのだ。「ダンス&クライ」は3部作を象徴する言葉だね。


『SAFARI』

 内省的な2作目。パッと明るい音使いの曲が少ない。曲もゆったり、体は横に揺れる。次のステップへ準備をしているイメージが強くある。大橋トリオとの相性が良い。ジャケの全てが好き。

Cry For The Moon/mellow yellow
 3部作の曲は特に口に出してみたくなるような心地よさがあって、英語の入れ方とか韻の踏み方とか、さりげなく材料が置いてある印象。この2曲はそれがわかりやすい。(こういうところが好きだからラップ入りの曲はやってほしくなかったんだ……。)

SHADOW MONSTER
 揺らいだまま踊ることを再度決めたよう。『PINK』の最後にも決めているんだけど、色々と考えてやっぱり……って戻ってきたみたい。自分の強度が上がるタイミングってこんな感じだ。「探しものは踊らなきゃ見つからない」!

名前
 許しです。失うこと、案外多くは持てないこと、それらを理解してしまったことへの許し。次作にも繋がる話だけど、ないことにすることと理解して受け入れることは全然違う。それがわかってきた私、良い女に近づいてしまっているな……。


『PASSION BLUE』

 音も言葉も開けた最終作。「ダンス&クライ」ぶりが著しくもある。再三言っているけど聴きながら「良い女!」と叫ぶばかりです。土岐麻子がシティポップを掲げて作品を作ると決めたとき、こういうアルバムで終えるのは必要不可欠なことだったのだと思う。速いスピードで変わる街の鈍重な部分を切り取ったアルバム。

Passion Blue
 リズムから考える。いきなり歌のリズムがよれている。なんかちょっと変。体はリズムを追って動くけど、これでいい? 合ってる? サビで普通のリズムに戻る、なるほど。少し注意してメロディーや歌詞を聴かなければ気が散ってしまう感じを体で覚えて2番へ。よれたリズムで放たれる言葉に注意して……ここを聴かせたかったのかもと思いながら聴いたら、次はストレートなリズムのサビで言葉通り自由になる。私のリズムの解釈はどうだろうか?

美しい顔
 1曲目からの流れで最終作が解放的であることを教えてくれる。解放感の中に隠れた問いの存在も。MVの最後にきちんと自分の顔で写り、先行配信で聴かせておいてから“Passion Blue”の後ろに、アルバム内では聞こえ方が変わる配置。これまでに色々なことを決めてきたけど、それとはステージの違う決意が存在している。SFっぽい世界観の曲。関係ないけど、MVを撮った柿本ケンサクさんの広告案件じゃない作品の展示がすごくよかったから、機会があったら絶対にまた行きたい。

エメラルド
 前作の"名前"で言ったことがここにも。「痛みを感じないふりが 美しいはずなんてないじゃない」。痛みを感じてしまうのもよろけてしまうのも仕方がないことだ。よろけたときに『PINK』のような気持ちになるかもしれない。だが痛みやそれによる揺れが起こることを理解した自分がいれば、強がりではないYESが言えます。

愛を手探り
 1、2作目と段階を踏んで、3作目で挙げてきた曲があって、このタイミングでこういう曲をかまされると死ぬからやめて。理解があると痛みへの耐性ができてくるように思うけど、同時に痛みへの理解も育っていることになるので、人生、普通にずっとめっちゃ痛い。

Bubble Gum Town
 ついに具体的な地名が出てくる。東京。東京については以前話しているから省きます。「悲しみもすぐに忘れ」本当に忘れた? 「若いきみなら」「知らない ふりでいい」いつまでいい? 「明日街は誰のものか」? こういうテンポで、何かの影に問いが置かれる街。これを聴いたすぐあとに“City Lights”へと戻るとかなりいい。新しい目線で街を見れる気がする。


土岐麻子の音楽は、女のための音楽か?

 全曲を挙げそうになったところを抑えに抑えてこのサイズ。もう話したことでもあるけど大事だからもう一度言わせて。私は「良い女」という言葉を「良い人間」と同じ意味で使ってきた。性別にこだわって話したのは私が(あえていえば)ストレートに女であること、どうしても体を持つこと自体は放棄できないこと、女だからというだけで嫌な思いをすることなどが理由だ。たまたま土岐麻子が女性アーティストだったから、私の立場上では女というワードを重ねやすかっただけである。私のレビューなのでそうなります。

 性別に関わらず全ての人間が立場を持ち、体を放棄できず、他者からラベリングされたうえで嫌な思いをする。生まれ持った装備をどう使うか、私がしてきたのはそういう話だ。これ説明する必要ある!? と思ったがあるのでしょうね。土岐麻子は音楽の中に「いや、これは性別関係なく受け取ってほしいことでして……」なんて入れられないでしょう。私は文章に入れることができるので言っておきますね。土岐麻子は女にだけ音楽を渡しているわけではない。これ以上話が膨らむと大変なのでやめます。

 音楽から誰が何を感じ取ってもいい。こういうことを音楽に肖って、長く考えて話す私を気持ち悪いって思う人の気持ちもわかる。だが誰に許される必要もなく許されたことだともわかっている。様々な立場や選択肢の可能性を考えて、選んだり覆したりしていこうね。

 4 Neighbor's Radioでの1本目でした。今後はもっとライトにテンポよく書いていけたら良いな~。



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