自然体でいられることの価値



発達障害の当事者としておっさんずラブという番組を視聴する中で、ふと、春田はADHD(注意欠陥多動障害)と、若干のASD(自閉症スペクトラム障害)があるのではないかと考えた。

ADHDに関しては、ポケットにティッシュを入れたらまま洗濯してしまうなど、よくあるけれど注意されれば治ることが治らない。
朝が弱く、つい会社に遅刻してしまうところは自身のことと照らし合わせて罪悪感で胸が痛むシーンだった。
春田について牧の言葉を借りれば、

・優柔不断
・朝不機嫌
・服脱ぎっぱなし
・好き嫌い多い
・靴揃えない
・皿洗いしない
・ちょっとそれ一口頂戴って言う
・改札で引っかかる
・方向音痴
・うつ伏せで寝る

以上10点から、自分を律しコントロールすることの難しい人だなという人物像が見えてくる。
『おっちょこちょい』な場面が多い。多すぎる。
机の上の書類にぶつかってそれをすぐに床に落とすおっちょこちょいさは、脳のボディマッピング機能がうまく働いていないのでは?と想起させる。

ASDについては、自分の意見を表明せず、『押しに弱すぎる』ところが、自分の気持ちを判断するのに時間がかかり、結果的に相手の判断に合わせてしまう受動型なのではないかと思わせる。
『鈍感過ぎる』と言われるのも、ある種の空気の読めなさからくるものではないだろうか。

発達障害といえば、大抵のイメージが『困った人』で、周囲から孤立しがちである。

けれど春田は社内では孤立していないし、障害があるとは思わせない。
それは、彼がとても『人の話をちゃんと聞いて受け止める素直さ』と『困っている人に手を差し伸べる優しさ』という能力あること。
そして、部長が「俺が春田をここまで育てた」と言うように、面倒見が良く、かつ優秀な上司が見守り、仕事のノウハウを丁寧に教えたからだと思われる。
それと、周りの同僚も、おっちょこちょいだけど一生懸命で憎めない人として、彼を認めている。おそらく事業所内にお互いにサポートし合う風土が出来上がっているため、遠慮なく相互にサポートしあっているので、一方的にサポートを求める必要がない。

つまり、環境が整っていれば発達障害とはみなされず、『そういう風な人』で済む。
相互サポートができる人間関係ができていない環境だと、発達障害当事者側からの一方的なサポートの援助要請になるため、周囲の人間にとっては負担となる。
負担からは良い感情は生まれない。
結局、お互いに人間関係にマイナスの感情をきたしてしまう。
周囲にとっては『お荷物』になってしまうし、当事者はそのマイナス感情を察してストレスから二次障害を起こし、二次障害を抱えたまま就労するか、職場から退場せざるを得なくなる。

春田はそうはならなかった。
常に自然体で、そこに居た。

先ほども述べた通り、善き上司、善き同僚に恵まれた。
それは、同性愛のカミングアウトの場面でも現れている。カミングアウト後に不快な態度を向けてくる同僚はいなかった。
偏見がなく、それを受け入れてくれる人の前では人は自然体でいられる。

自然体であることに関して、おっさんずラブの感想について、
「周囲の人は気にしていないのに、ゲイであることを牧当人だけがそれを気にして悩んでいる」
と述べていた人がいた。
なるほどと膝を打った。

社内でのカップルであるカミングアウトの際、少なくとも同僚はそれを受け入れて、祝福していた。
それを振り払い、自分といたら不幸になるとの気持ちを振り払えない牧は、偏見のあるより大きな社会全体への不安、偏見に対する恐怖に恋人を巻き込むことを、自分だけで抱えてしまっていた。
現状の世情を考えれば、仕方がないことではあるが、善き周囲の人々の中にいてなお、自然体になることができなかった。

自然体でいられなければ、本来の自分像との軋轢に耐えられなくなる。
自然体でいられない環境に居る場合、やはり人は一度その環境からは離れてみるしかない。自分を守るための逃避だ。
だから旅に出ることにした。
けれど旅に出る前、本当に好きな人からプロポーズされ、求められたことにより『社会への不安、恐怖』を超える圧倒的な肯定感を牧は得た。
「もう我慢しない」という、自然体でいられる場所を、手に入れた。

自然体でいられる場所こそが、人にとって幸福であれる場所だろう。

脚本家の徳尾氏は、春田のキャラクター像については、『ドジだけど憎めない、こういう人いるよね』という普通の男性像を描きたかったのではないだろうか。
牧に関しても、『完璧に見えるけど実は繊細な、素顔を見せにくい人って普通にいるよね』と。

その、世間の普通の人の中に隠れた、実は普通の人に擬態したマイノリティの人が大勢いる。

発達障害であれば、「そうは見えない」と言われるのは、当事者達は共通して言われてきた言葉だ。そう見えないからこそ、困っていることが沢山ある。
何の問題もなさそうに見える人の中に困難があるから、周囲との軋轢になる。

ゲイであれば、「そうは見えない」ように自分を隠すことに必死に努力している人もいるだろう。オープンな人も増え、理解のある人も増えてはいるが、世間はまだゲイフレンドリーとは言い難い状況である。

『そうは見えない普通の人』であるからこそ、息苦しい。

発達障害とゲイとの話をしてきた。
発達障害は周囲が理解をし、相互サポートの関係が成り立ってさえいれば、本人は障害を持っている自覚すら普段は持たない。
ゲイであることも、世間にそれが当然のことであるとの認知が広まれば、社会の目を恐れることはなくなる。

普通の人の中に、マイノリティがいることが当たり前の、自然体でいられる社会がきて欲しい。
おっさんずラブが腐女子だけではなく、一般視聴者からも面白かったという意見が多かったという評価を知り、その社会は緩やかに来ているのではないかと、考える。


発達障害当事者のこちら側へ来ることの無かった春田の幸福を思い、そう願う。

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