うすっぺらな社会で

最近、つとにこの社会はとても薄っぺらだと思うことが増えている。

目立てばいい、売れればいい、インスタ映えればいい。

そんな薄っぺらい思惑が透けてみえるものが、溢れかえっている。

どこにいっても、それが跋扈していて、見ているこっちがしんどい。

こう言っておけば、中身はともかく売れるでしょ、という感じだ。動画メディアもそれに倣っている。少しでも頭を使ってその言葉の裏を読むことができる人ならば、そんな薄っぺらなものには手を出したくなくなるだろう。

要するに、一度でも売れてしまえば後は知らない。という感じの、焼畑産業なのだろう。

中身がどうかはしらないが、とりあえず「おトク」感を醸成し、購入に至らせる。当然前段階で期待値が上がっていたり、場合によっては偏った情報だけで購入していることが多いから、後悔する。となると、「賢い消費者」である彼ら彼女ら次は買わない。だから、売る側としてはまた新たにコンテンツをひっぱりだしてきて、うすっぺらな化粧を施して拡声器で触れ回る。ありとあらゆる手段で。

スマホの普及は、個人の生活のいたるところに広告を展開することを可能にした。今までせいぜい看板とネオン、そしてテレビのCMぐらいだったものが、常に広告にさらされるようになった。

人々は、今や四六時中、睡眠時を除いてあらゆる角度からその欲求を刺激されている。

それは、「潜在的な」欲求を刺激するというよりは、もはや刷り込みに近い。自然、何かを決断しようとする際に、情報と言う名の広告を信じることに偏ってしまう(口コミもこれに含まれる)。


私はある種この薄っぺらな社会に対して絶望を感じている。あらゆる角度から刺激を注射され、思考することなく刺激の組み合わせに反応するようになっていく大衆をみて、もはや人間の理性というものは半ば潰えているのではないかと、そんな風に感じるのだ。例えるなら、映画「マトリックス」では、未来において機械が動力源たる人間を「栽培」する様子が描かれている。その情景と、今の社会はそう変わらないのでは無いかと思う。今の社会において、動力源はすなわちお金だし、機械は要するにお金儲けしたい人たちだ。マトリックスにおいては機械ー人間という上下構造が明確であったのに対し、今は栽培する側もされる側も人間であり、場合によっては栽培される側にもなりうると言う点で、より閉じた構造をしていると感じる。ウロボロスの蛇みたいなものだ。


こんな社会においても、上位10%を救いたいと渇望する若き政治家がいる。見捨てられた、打ち捨てられた人々に、働く喜びを知ってほしいと醸造場を立ち上げた若き起業家がいる。

彼らは一様に救いたいと宣う。

私は救う価値があるのかと自分に問う。

少なくとも、多くの大衆に救う価値はないとかんじている。

私は、私が救う価値があると感じた人に誠実でありたい。それは独善であり、偏見に満ち満ちた基準に基づいた、私個人の考えである。

しかし、人間が人間たる以上、自分の生きてきた世界や偏見から逃れて物事を思考することなどできるのだろうか?

私を規定するのは、生まれてから今までに至る人間関係、教養、社会的背景その他諸々の因子であり、そうして形作られた私の色眼鏡を通してのみ世界は存在しうる。


明日、私が死んだとしても、社会は回るだろう。

でも同時に、私が死ねば私の世界は潰えるのだ。


ただ、その考え方で一点不満があるとすれば、それは私が生きてきたことを全くの無意味にしてしまうという点であろう。

私が生きてきた世界が、いま私が認知している社会を形作っているとすれば、それはもう手の込んだ自殺みたいな皮肉に過ぎないという考えもある。

約30年を通じて私はこの社会を生きるに値しない社会だと思うために生きてきたということになる。


それはいささか看過しがたい事案である。

私は自分自身に価値があるとは全く思っていない。ただ、生きてきた事実を軒並み否定されるのは、少々感情的に抵抗がある。漫画版のナウシカみたいなもんだろうか。



さまざまな紆余曲折を経てたどり着いたキャリアアドバイザーの仕事は、初めは天職だと思った。

でも、できることは限られていた。世の中を変えることはできなかったし、目の前の個人が生きてきた文脈を書き換えることすらできなかった。そうしてどんどんチープに個人が集められ、「支援」されていく様に絶望と無力感を感じて、あがいた結果が過労だった。

向き合えば向き合うほど避けられたし、成果には結びつかなかった。心を殺して作業をし、ゲーム感覚で他人の人生を弄んだ時が最も成果に結びついた。自分の口先三寸で、いとも簡単に人の未来を左右できるチープな万能感だけが救いだった。だいたいそのあとに恐ろしい虚無感に襲われた。


働かず、社会から遠ざかって見えたものは、社会全体が薄っぺらくなっているし、それをみんな良しとしているように見えることだった。


それでも、人を救いたい。

前に進もうと言う意志を手助けしたい。

そこに存在しようとする人が持ちうる障害を、一緒に乗り越えるすべを考えたい。

だから、キャリアコンサルタントをやめない。


これは理屈とか抜きで出てくる想い。

でもって、手の届く範囲の人を救っても、後から来る人たちが傷つくことを防げない。

そう言う意味で、社会を変える必要があると痛感する。


幸い、汎用性は高い。突き抜けた専門性は無いが、処理能力その他の基礎能力は高いほうだと思っている。

だから、何か、できると思う。


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