復活日誌その1(不定期)

ねこまたです。


社会復帰して3週間が経過しました。

異動して復帰したため、今は中途入社・異動者の育成部署でぼちぼち仕事のカンを取り戻しているところ


4月と言うこともあって異動者も多く、復帰するにはまあまあ大変なタイミングではあったものの、結果として3週間の間、残業はほとんどせず、遅くとも20時で、基本は10時〜19時の定時帰りで働いている。

そうはいっても日中はやれロープレだ、研修のけんがくだと、わりと忙しい(たぶんプレイヤーをやっていた時より下手すると忙しい)。自分でスケジュールをコントロールできないのが大変で、下手するとお昼ご飯やトイレすら行く暇がない時もある。


最初はそのあたりに戸惑っていたけれど、慣れとは怖いもので結構図々しく隙間時間にコンビニに行ってさぼったり、カウンセリングの相談に乗りながらコーチングのふりしてご飯食べたりと元気にやっている。


社内でも、「なんか久しぶりに見た」みたいな感じでいいリアクションをしてくれる人もいれば、ものすごく塩対応な人とかもいて、みんな距離感つかみづらいんだなぁとは思う。ま、人事やってる人でその対応しちゃうのは、さすがにないと思うけどね。そんなひとが採用なんてやっちゃいけない。

やっぱり採用は営業である以前に頭良い人じゃないといけないんだなぁと思う。拡大期だから役職者に対しても物申せて数字をしっかり出せる人、というのはわかるけれど、法人しかやってない、数字追うだけしか能のない承認欲求の塊みたいなB層丸出しの人間が関わるもんじゃない。そう深く感じる次第。

個人的な恨みがものすごくはいってるのは認める。

前回過労になったのはだいたいこいつを含むバカなプロジェクトメンバーのせいなので、精一杯罵ることにしている。


とはいっても仕事で否が応でもからまなきゃいけないので、いったんはビジネスライクに仕事をしようとおもう。インスタしか頭にないバカに気を取られていては、結局自分もおなじ次元でしかないので。

具象の世界に興味はない。

具象の世界をどう変えるかにも、もちろん興味はない。


その世界を支配する法則と、それの背後にある思想レベルになってようやく興味がわく。

この半年を経て、それはよくわかった。

そして、具象の世界にも、残念ながら共感してしまえる感受性と人の機微への聡さが、世捨て人になれない、なりきれない所以でもある。


哲学関連の思想を歴史順に読んでいると、だいたい中高生ぐらいに自分で辿り着いていた思想の順番を復習する気持ちになる。

だから、たぶん天才なんだと思う。

でも、世の人々の具象を捨ててまで思想に蒙昧できなかったのは、ひとえに感受性と機微への聡さのせいである。結局のところ半端者であり、あっち側にもこっち側にも完全に染まりきれない。

天才性を発揮するフィールドはすでに遠く、いま生きるフィールドで天才性を発揮しても得られるものは的外れか何も得られない。


人生の中で、自分が取るに足らないクズだと思ったことは何度でもあるが、天才なのだということを自認したのはこれが初めて。

何度か、そうかも、と思ったことはあるけれど、その度具象の世界での天才や秀才に出会って打ち消されてきた。


ここで自認する分には誰にも迷惑をかけないし、別にいいだろうと思ったのと、やっぱり言葉に落としたかった。


手際の良さも、頭の回転の速さも、引き出しの多さも、その検索速度も正確性も、人当たりの良さも、機微への聡さも、感受性も、全てはただの枝葉末節でしかない。

本流にあるのは生きることへの興味でありさらに言えばどうせ死ぬのになぜ足掻くのか、ということへの興味である。1人でいるというのは、とてつもなく退屈なものだと、ベビーベッドに寝かされながら思ったのが一番古い記憶。つまり、いきることは退屈なのだというのが根底にある概念である。

幼い頃からいくつもの虫や小動物や魚を飼っては死んでいく様を見つめたけれど、彼らが小さな虫かごの世界しか知らないままであることに、そして自分がそうなってしまうことへの言いようのない恐怖を何度も感じた。


人生とは畢竟死ぬまでの暇つぶし。


なにかのラノベで読んだセリフだけれど、本当にその通りだと思う。


だから私は具象の世界はほどほどに、知識と思想の世界で自由に生きるのだ。

それはあたかも重力その他の制約から振り切った世界であり、しがらみのない楽園だと思う。


この生で何かを成し得るのか、歴史の染となって消えるのか、それはわからない。この天才性を生かせぬまま死してしまうのは、何かに対して申し訳ない気もする。


でも、何かのためにどうかするという時点で、私のモチベーションは地に落ちるのだ。

自分の興味が大半。そして自分の生きてきた具象の世界にのみ存在する経験に対して、少しばかりの共感を持ちうる少数の他者にのみ奉仕して生きていきたい。

それは他者への奉仕ではなく、経験への奉仕である。



匿名性をいいことに、社会正義を振りかざす無頼の輩が跳梁跋扈する時代、少しぐらい、天才を名乗ったっていいでしょう?減るもんじゃない。



と、威勢良く(?)啖呵を切ったのはいいものの、そうは言っても現実で生きていく以外に今のところ方法はない。だから、現実で会社から求められる目標設定をしなければいけない。

いわゆるMBOというやつだけど、プレイヤーとしてキャリアアドバイザーをやっているときは楽だった。綺麗事+会社から与えられる目標プラスαを書いておけば、まあなんとかなった。


いまはミドルなので、そういうわけにもいかない。直接売り上げに絡まない分、どういう形で組織に貢献するのか、顧客(これも捉え方は様々だ)に貢献するのか、明確に設定してそれに励まねばならない。


ご存知のとおり、自分の興味のない世界で頑張れるほど、人間できてはいない。人としての器は人類史上かつてないほど小さい部類に入ると思っている。

しかし、私の興味のある分野は。少なくともビジネスに絡む分野ではない。

正直に言えば、哲学を含む生き方についての思想家、研究者というのがやりたいことに近いけれど、会社からすればそれならさっさと象牙の塔に戻れという話になるだろう。もしくは「で?」という問いに。


となると、それと少しは現実を近づける、落とし所みたいなところを見つけないといけない。

いまはトレーナーとして講座で喋れるようにする、とか担当新人が卒業時にどういう状態にある、とか具体的な話と、将来自分がどうなっていきたいかというヴィジョン・ミッションと、自分の興味のある世界とを結ぶ線みたいなものを考えなきゃいけない。


難しいのは、上長含めおそらく私の興味のある世界の話は誰も知ろうとする気がないだろうという現実的かつ絶望的な予測があることである。

いまに始まったことではないけれど。


少し光明があるとすれば、会社としての方向性が、自分が興味のある世界で一番良いと思っている思想と大枠同じ方向を向いていることだろうか。

はたらくということについてのイニシアチブを、個々人が持てるようにしたいと思っている。

はたくことへの拒否感は痛烈で、社畜なんて言葉も生まれている。だが、この資本主義社会で金銭的報酬を受け取らずに生きていくことは難しい。とすれば、大半の人はなんらかの「はたらく」を通じて金銭的報酬を手にし、それを元手に生きていく他ない。その際、「はたらく」にはさまざまな制約が伴う。何を対価にするかによって、大きくその制約は異なってくる。多くの人は「時間」を対価にすると考えがちだ。ニュートン時間で考えれば、たしかに一律1日の三分の一を捧げるのは割合として大きい。しかし、その労働時間をどのように認識するかは、個々人に委ねられている。どのような労働であってもそれは基本的には変わらないし、もっと言えば労働の中身を変えることも、今は比較的容易になってきた(ジョブチェンジの際にゼロスタートという弊害はあるけれど)。


精神論に捕らえられがちだけれど、これは真実でもある。アドラーによれば、貧困だから貧しいのではなく、貧しく生きるという目的があるから貧困に陥るのである。人はいつ何時でも、今現在生きている物語を書き換えることができるし、失意のどん底でも希望に満ちた未来を見ることができる。

逆に言えば、そうでなければ救われない。


だからこそ、「はたらく」に疲弊している人に対して「はたらく」を、ひいては人生を自分のものにする力を授けたいと思う。「与える」「授ける」という上から目線の言葉を使うのは、まだ実のところ腹落ちしているわけではない。

しかし、未だ「国」や「会社」という他者に自らの人生を委ねたい人は大勢いるように感じる。現役のアドバイザー時代、一番よく聞いたのは「次の会社では一生働きたい」。意気込みを感じるような言葉だが、実のところ要するに「お金に困ることも将来の心配をすることもなく、与えられた仕事をこなしていれば定年まで人並みの生活が送れ、ストレスも少ない職場」を「会社」に対して夢見ているのである。同様に「安定」というワードも同様である。みんな他人事なのだ。日産も東芝も、よその話で、自分の世界には無いと思っている。そんなはずがない。

会社の安定性ならまだビジネスモデルや商材である程度想像がつくにしても、人間関係や精神的な疲弊など、もはや変数が多すぎて予測などできるわけがない。唯一の道は宝くじを毎年当てて引きこもることだと思うけれど、それも日本円が紙くずになれば同じことだし、できるもんならやってみろという感じである。


冒頭、おおよそ具象の世界に興味はないと書いたが、それでも具象の世界に口出ししたくなるといえばこの辺りである。それは助けたいとかそう言う話ではなく、端的にムカつくから。思考停止の輩が見ててハラタツからでしかない。ま、それは置いといて。


ということなので、会社の方向性には概ね賛成している。そして会社としては「与える」という形で結論づけているので、いったんはそれと同じ方向性でキャリアを再構築しようと思っている。

まずは目の前の新人に、それを施すところだろうか。

キャリアアドバイザーの仕事は、やりがいも奥深さもあると思っているけれど、一生やる仕事でもない。少なくとも転職アドバイザーという点の仕事はそうだ。

目の前の膨大なタスクや知識を飲み込み数字に囚われていると、なぜこの仕事を選んだのか、なんのためにこの仕事をするのか忘れがちになる。

だから、使われる前にすくい上げる存在でありたい。

具象に興味はないけれど、否が応でも深く絡むメンバーに対しては、それは自己の経験への奉仕として、それぐらいは価値提供したいと思う。無論、全員には無理だと思うけれども。

そもそも、「はたらく」を自分のものにする力とはどんな力だろう?1つには思考力が挙げられると思う。それは頭の良さとかそういうものではなくて、思考を止めない力だ。思考停止にならず、常に客観的に俯瞰的に物事を見つめる眼差しのことだ。その観点(point of view)や思想については問わない。それだけで足りるだろうか?否、それだけでは飲まれてしまう。思考と現実の乖離を埋められず、ニヒリズムに陥るか、もしくは鬱に陥る(経験者は語る)。

思考を止めないことは、前提条件でしかない。その上で、必要な力はなんだろう?

私はテクニックとしてナラティブの力を信じたいが、それに関してはまだまだ勉強が必要だし、普遍的とはまだいい難い。

私が思うに、それはアダプタビリティとライフテーマに収斂する。つまるところ、大枠の方針としてのライフテーマ(人生のテーマ)に反していないこと、そしてその中で起こりうる様々なキャリア上の問題への適応力(アダプタビリティ)である。つまるところ、ライフテーマを設定する力と、変化への対応力こそがはたらくを自分のものにする力と同義だと感じる。

ライフテーマとは、人生の大枠の方向性を定めたもののことだとここでは定義する。サヴィカスの言うところのライフテーマをきちんと語るにはまだまだ勉強不足だけど、要するに「人の役に立ちたい」というライフテーマがあったときに殺し屋という職業は少なくともアダプタビリティで許容しうる範囲外であるという感じである。

ライフテーマは一定思考力のある人間であればどんな人でも設定可能である。粒度は「人の役に立ちたい」ほど荒いと解釈の幅が広がってアダプタビリティが高く求められるので、もう少し細かい方が良いけれど、これと決められたものがあるわけではないと思う。私の場合、ライフテーマは「自分を殺さない範囲で、自分の人生を生きる人の手助けをする」ことだと考えている。前の仕事はそう考えれば自分は殺すわ自分の人生を生きていない人ばかり(全員が全員ではなかったけれど)を相手にしていたので、アダプタビリティで乗り切れるレベルではなかった。

ポイントは自分に対しても解釈の余地を残しておくことである。「自分の人生を生きる人」というのは、一見わかりやすいように見えてじつは複雑だし捉えようによっては誰にでも当てはまる。だからこそ「自分を殺さない範囲で」という限定を加えつつ、アダプタビリティを発揮する余地を残しておくのだ。

ライフテーマとアダプタビリティについては、用い方によっては凶器になる。例えば、どんな状況でも、はたらくを前向きに捉えることができるひとは素晴らしいと思う。しかし、それは実質のところ要するに「自分のもの」にはなっていない。どんな状況でもそれを許容しうるということは、悟りの境地である一方ただの思考停止を状況としてはあまり変わらない。自分自身にあるライフテーマから逸脱した場合にきちんとNOが言えること。最低限の枠組みとしてのライフテーマ設定が不可欠である。

あるライフテーマにおいて、今の仕事が100%NOということは少ないと思う。10%とか20%とか、そういうレベルでYES・NOが入り混じっているのが現実というものだろう。その中で仕事に対する捉え方をはじめとして、いくつかの変革を自ら行うこと、そして仕事の中での割合変化や、場合によっては役割、仕事内容自体の変化に対して柔軟であることが次にくるアダプタビリティである。

まずは捉え方を変えてみる。会社の指標以外に自分で自分を評価できる指標を置いてみる。場合によっては職責より越権・越境してできることを探してみる。いま自分が行なっている「はたらく」に対して、自らを適応させてみること。その幅が広ければ広いほど、「はたらく」を自分のものにする力は強まる。ただ、上記のとおり無限大の幅は、結局のところ「自分のもの」にしているのと「言いなり」になっているのとをイコールにしてしまうのだから、ライフテーマという方向性を前提としておくのである。


ライフテーマは、その概念さえ知れば設定することは一人でできる。アダプタビリティは鍛える必要がある。場合によってはメンターとか上司とかコーチとか、そういった人の力を借りる必要があるかもしれない。友人でもいい。

ただ、実際の判断(つまり、アダプタビリティのトレーニングとしてもっと柔軟になるべきなのか、それともこれ以上心を壊さないために別な道を選ぶべきなのか)は1人ではしない方がいい。信頼できる友人(できればアドバイスをするのではなく、ただ話を聞いてくれるひと)だったり、キャリアコンサルタントだったりにしっかり相談した方がよい。

ちなみにアダプタビリティを試す期間は半年が適当だと思う。根拠はないけれど、短すぎず長すぎず。無論それまで心が持ちそうにないなら、それはもうアラームだからさっさと別な道を探すべき(もしくは探せる気力が回復するまで休む)。


「はたらく」を自分のものにする力を「ライフテーマ」と「アダプタビリティ」に設定し、前提として常に考え続けることをやめなければ、概ね「人生の主導権を自分以外に預ける」ことにはならないのではないかと思う。

あと大切なのはセーフティネット。いくらNOという判断をできるとしても、その判断の結果食うにも困る、という状況だと、とてもじゃないがそんな判断は怖くてできない。お金的な意味でのセーフティネットを知っておくこと(例えば傷病手当金とか休職の手続きとか雇用保険とかの知識)はもちろんだけど、何より大事なのは結局のところ利害関係のない友人知人だと思う。

例えばいま、私が独身だとして今の会社をクビになったとしても、東京に行けばなんとか生きていける気がする。仕事は何かしらもらえそうだし、宿を提供してもらうことも可能かもしれない。

そういう当面(3ヶ月〜半年ぐらい)の見立てさえあれば、人間はしぶといから結構どうにかなるもんだ。

あとはNOの判断をしてそういった先の見えない世界に身を置く選択ができる冒険心(リスクテイク)とか、その状況でも絶望しない楽観性とか、そういう類のものも必要か。なんだかさみだれにふえてきたので整理すると

・人生の羅針盤たる「ライフテーマ」;「はたらく」を続けるかどうかの判断基準となるもの

・自分自身の幅を広げる「適応力(アダプタビリティ)」;「はたらく」にライフテーマに沿った意味づけを行う力。今の仕事に自分なりの意味付けを行うことでオーナーシップを取れる

・根拠ある楽観性;今の「はたらく」にNOを突きつける勇気の源泉になるもの。資格でもスキルでもいいけれど、一番は利害関係のない人間関係。困った時に助けてもらえる、そして相手が困った時に助けてあげたいと利害抜きで思える関係性。

・リスクテイクをできる勇気;楽観性に近いけれど、実際に行動を起こす勇気。

の4つだと、いったん仮置きする。他にもあるかもしれないけれど。

そうなると、今の自分にそれがあるという前提で、目標設定の大枠を「新人に「はたらく」を自分のものにする力を与える」にするとすると、トレーナーとして手伝えるのは「ライフテーマの設定」「アダプタビリティのトレーニング」の2つ。根拠ある楽観性は示唆やティーチングで概念は伝えられても、実際にそれを提供することは難しいし、提供できてもそれが楽観性につながるかはわからない。勇気も同様。要するに自己肯定感だが、代理体験(背中を見せる)は、他人のために私のキャリアを犠牲にする必要があるし、社会的説得(君ならできる!)はむしろ最後の手段(別な道を取った方がよいと客観的に判断できる時)であるため。


フロントの仕事はとてもしんどい。数字に追われ疲弊する。だから、数字を出すことは苦でもない(別に未達もあるけど勝ち方もわかってる)状態が、「思考を止めない」手段になる。

ということで。

成果目標としては数字に追われず楽しめるプレイヤーの排出を。

行動目標としては、

顧客たる新人に対して;ライフテーマの深耕・設定の補助と、それにともなったアダプタビリティの訓練(考え方、とらえかたの引き出しを提供する)ことに大別される。

組織に対しては、よりそういう人を横断で増やせるような研修なり施策なりを考える、マネジメント層と一緒に。

そういう感じになりそう。

最後の方は時間がなくてかけあしなので、またちゃんと練り直すとして。


何が書きたかったんだか。

はてな。





















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