マウンティングの思考の裏にいる自分

休職最終日だし(厳密にはあと2日残ってるけど)、向き合わなきゃな、という気がしぜんにわいてきたので、気の赴くまま書く。


これを改めてかくのは恥ずかしいことだし、場合によっちゃ「今更何言ってんの?」だったり嫌われる可能性も十二分にあることを承知で、晒そうと思う。




私は自分が人より優れていると思いたがる性向がある。

それだけならまだしも、それを理論武装する。

具体的なエピソードも交えて、自分の都合の良いように注釈をつけて、いかに自分がすごいかひけらかすのが大好きだ。



そういう話を口にしている時や、書いているときは、だいたい言い訳をしている感覚に近くなる。

「このレベル感のことはわかんないでしょ。だから仕方ないよね。」

みたいな感覚。

自分の欠点を、逆に優秀さというベールで理論武装して煙に巻くような言い草をすることが多い。

たいてい、話しているときは自分のなかで筋が通っていても、後から思い返したり読み返したら、マジでしんどい。

なんかもう、見てらんない。そんな感じ。


これはなぜだろう?


正直、人間関係含め、うまく行かないときは大抵これが邪魔をしている。後から「そこまでいうほどのこと?」と冷静に振り返っては凹む。

人生全般であるけれど、特に仕事の上では多い。

考察できる理由の1つに、交渉という概念が自分の中に歪んだ形で存するのでは、というものがある。

つまり、当方の正当性(論理的、道徳的、功利主義的その他)を声高に主張して、相手の論理を押し流し、自分の我を通すことというようなイメージがあるのではないか。

そこには双方の主張の落とし所や止揚は存在せず、白か黒かの世界である。

勝ちか負けかといってもいい。

すぐさま全面戦争に突入し、相手の主張を殲滅することが目的になっている。

本来、ちょっとその岩なり障害物なりを退けてくれるようお願いすればいいのに、相手の国土ごと焼夷弾で焼き払うイメージだ。


これはなぜだろう。


具体的な例をもとに考えると、前の仕事はクライアントと企業の間に入る仕事だった。クライアント側の人間として、企業側に立つ営業担当によく食ってかかっていた。その際、本来クライアントのためには企業にこう動いて欲しい、こういう情報が欲しい、というのが本義なのに、営業担当を責め立てること、企業を悪者に仕立て上げることに執心してしまうのだ。そもそも論、道義的に、といった観点から。

ぶつからずとも、営業担当にうまく動いてもらえればそれで丸く収まることもある。無論、営業担当も人だから、そこを動かすには色々あるだろうけれど、本質的な目的はクライアントのために企業をどう動かすか、だったはずで、決して営業担当の能力や企業のスタンスを議論する場ではなかったはずだ。

こういうとき、よくやってしまったのは、自分の持てる知識を総動員して喧嘩を売りにいくというスタイル。

知識をひけらかし(法律、理論、判例、過去実績etc)、マウンティングを取り、相手をコントロールしようとした。


ものすごく危険な行為だったとおもう。

よくまあ今まで刺されずに生きてきたものだと。


どうしてこうなってしまうんだろう。


1つ、思い浮かぶのは、新卒ではいった銀行でよく上司に言われた言葉だ。

「俺を馬鹿にしてんのか?」

「俺を舐めてんのか?」

彼もコンプレックスの塊のようなひねくれた人物だった。正直仕事において、メンツなど最低限の礼儀さえ払っておけば他はどうでもいいはずである。彼の求めるメンツというのは、全て自分の思い通りになり、ストレスがないことだったのではないか。

最初の上司のせい、という究極の他責で考えると、こういう「メンツ思考」が自分の中に染み付いている可能性は否めない。


新人賞を取り、全アドバイザーの中で最も顧客の評価が高いという賞も取り、入社後最短で昇格し、リーダーになった。これは物理的な事実である。

それに対し、どこか気負う部分がなかったと言うと、それは嘘だ。

たった2年足らずで関西支社200人の中のみならず、全社的にも(顔も知らない東京の人間にも)名前と経歴が知れ渡ってしまったために、「スキは見せられない」、そんな想いがあった。

だからこそ、「舐められてはいけない」思考になったと思えるのだ。

でも、なぜそこでそうなってしまうのか?

賞を取ろうが昇格しようが、それとこれとは関係ないはずだ。


とどのつまり、賞をとろうが昇格しようが自分の中で自信が満たされることは全くなかったということなんじゃ無いだろうか。自分に自信が持てないから、だからこそ賞や立場に依り代を求めた。その意味も考えず、ただ立場に見合った敬意と扱いを求めていたのでは無いかと思う。そうすることで、自尊心を保つ以外になかった。

自分に自信が持てない理由はアダルトチャイルドの箇所で考察した通り、他人からの評価軸が絶対の評価軸というルールで自分を縛ってきたからだと思う。


元来自分大好きで、自分なりの価値を認めて欲しい人間である。だいたい大勢の人とは違う道を歩きたがる。そのくせその道で、マジョリティからの承認を求めたがる。とてもめんどくさい。自分で選んだ道なんだから、それを興味ない人たちに承認してもらおうったって、そうはいかないはずだ。でもそれを理解しない。大勢の人が歩く道からはずれた獣道で、ここの良さをどうにかわかってほしいと叫んでいる姿はとても滑稽だし、なによりしんどい。孤独だから。

そういうことだったら、大勢の人が通る道で評価された方が早い。で、自分を押し殺して大勢の道で先頭を走るように努力する。先に立つのだけど、やっぱり自分の心は獣道にあるから、どれだけ周りからすごいねと言われても満たされない。ただただ、お前らの基準で上位なんだ、敬意を払え、相応に扱えと振舞ってしまう。


私は銀行で鬱になっていらい、獣道を歩いてきたつもりだった。でも、結局はマジョリティの承認を求めてしまった。

入社して1年後、仲のいい人事から言われたことがそれを物語っている。

「ものすごくアウトライヤーな感じで進むのかと思ったら、めっちゃ王道にいるね」

少なくとも入社した頃は獣道をひた走っているつもりだった。それが気づいたら、マジョリティでも認められる成果として出てしまった。そしてマジョリティの中で上に進める道が開けた誘惑に乗ってしまった。

それがすべての元凶だろうと思う。

じぶんが獣道を走る中で、とはいえその獣道はどこに向かっているのか、否、どこに向けて獣道を作って行っているのかも考えず、マジョリティからの承認が心地よく、ぬるま湯に浸っていたくて前をみなかった。

マジョリティに合流したけれど、その姿勢は変わらなくて、でもマジョリティにいる以上、王道パターンの前への意欲を問われて。獣道に心があるから王道の道へはいつも心ここに在らずで。

そして未だに王道に執着が少し、ある。

それは、過去の亡霊といった具合だ。いつぞやから自分を縛るような装備を、自然と身につけていた。マジョリティの中ではそつなくこなすことのできる、でも自分の動きたいようにはうまく動けない。マリオネットみたいな装備。

王道を求める自分を否定する気は無い。

最後には、王道と獣道が同じ終着点に着くと思いたいからだ。獣道をひた走りながら、王道からも見える燦然とした何かを見つけたいし、掲げたい。

これはなんかこう、否定しがたいのだ。

すごいしんどいけれど。

ずっと横目に王道をみながら、獣道で王道には無い下草や小枝に傷つきながら、時には超絶回り道をしながら走らなければならない。

もちろん、獣道だから観れる景色もある。食べれる果実もある。王道は歩きやすいけれど、味気ないかもしれない。王道で飲む給水ポイントのミネラルウォーターと、獣道でやっとの思いで見つけた湧き水なら、後者の方が美味しいかもしれない。

獣道を行きつつ、王道にも認めさせてやりたい。

それはなんでだろう。

ただ、マジョリティからの承認というのでは片付けられない、マイノリティを認知させるような意地みたいな感じで思っている。

てめーらが捨てた世界でも、ここまでやれるんだぞ、みたいな。むしろ抜け道だったぜみたいな。

身の回りに理解してくれる人がいて、それでいいんだ、とは私はなれない。

それだとマジョリティを高みから見下ろす、まさに竹林の七賢状態になってしまう気がする。

世に認められず、世を認めず、関わりもせず馬鹿にする存在になってしまいそうな気がする。世は世、私は私、というふうに考えられるほど、人間できていない。たぶん人間としての輪廻の周回数は浅い。

浅ましく世間並みの成功を求めつつ、王道ではなく獣道からそれを狙いに行きたい。王道を走るのは、なんかかっこ悪いしそこの人たちの中に埋もれるのはいやだ。

なんかものすごいふくざつ。

コンプレックスという言葉はまさにという感じで、絡み合ってて何が根っこか本当にわからない。

王道走ってきたけれど、見事に息切れしたので、また獣道との分岐点からリスポーンすることになる。

息を殺して王道の後塵に拝するか、獣道を唯我独尊マイペースで歩くかの分かれ道。

できれば後者でのんびりやりたい。

自分のなかの王道承認欲求が暴走しないようにしつつ、獣道の散策を楽しみたい。

そうすれば、自然体でいれるはずだから。


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