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ロラみの考―トロピカル~ジュ!プリキュア:ローラと一之瀬みのりのカップリングに関して— #precure #トロプリ

 トロプリの正統派カップリングが「まなロラ」なのは周知だが、ローラと一之瀬みのりの「ロラみの」が多く話題になるのもまた確かである。いわゆる(こじつけめいた)“カプ厨”的発想と取る向きもあるかもだが、かなりの妥当性があるように思われる。

 ロラみのが初めて意識されるのは7話からだろう。もちろん4話でのローラによるみのり叱咤はあるが、それはさんごやあすかに対するストレートな態度と変わるところがない。(まなロラは別として)ローラに対するみのりの関係性がさんご、あすかのそれに比べて明確な優位を示し始めるのは7話からであり、トロプリ全編を通してその優位差は拡大していくばかりだった(もちろんその間にも「まなあす」「さんゆな」等、他カップリングが着々と確立しつつもあったが)。

 4話でのみのりとローラの立場関係でははっきりとローラが上に立っていた。直截なローラの性格と言葉が過去のトラウマに捉われて後ろ向きなみのりを叱咤し続け、ついには再起させるに至る。心理的な主―従関係は見やすい。

 しかし7話で“ロラみの”の関係性は変化・進展を見せ始める。くるるんの失くし物を見つけるため、ローラを含む他のメンバーが海辺を探し、パワーアップアイテムの妄想をしている間、みのりは防風林で失くし物を発見する。どうしてかと問うローラにみのりは読書で培った想像力を説くが、それを聴くローラの態度は明らかに変化しており、みのりへの見直しが看取される。そこまで高く評価していなかった相手が意外な才能や能力を発揮して観直しにいたるというのはよくあることだが、みのりの話に聞き入るローラからはそうした変化がうかがえた。

 この7話をカップリングとしての“ロラみの”の嚆矢としたい。その所以は、ここで初めて、そして一気に2人の立場バランスが対等に近づいたからだ。4話でみのりを一方的に叱咤したローラのような勾配関係はかなりの程度解消されている。
 世に言う(物語における)“カップリング”には様々な型があり、例えば現行作デパプリでの“ここゆい/ゆいここ”では、ここね側からのゆいへの心理的な従属を見出す解釈が多い。比して、“ロラみの”はどうか。
 私は“ロラみの”は対等型のカップリングと見ている。それも単にお互い仲良く、あるいは尊重しあっての穏やかさが続く仲ではない。互いに相手の心理的な隙を見出し、丁々発止の差し手争いを交わす関係である。
 常に自身道を切り拓く強さと行動力、さらには高い気位を持ち合わせたローラ。容易に内面を曝け出さない気質によって他者に心の奥底を探らせず、読書で培った豊かな想像と鋭い洞察の力で時に深く切り込むみのり(16話でのローラの心理読みがそうである)。正反対の気質ながら、自身に釣り合う精神を互いに見出した者同士ならではのやり取りがしばしば交わされる。(親しい者同士の)“煽り”には、受け手側にある程度の懐の広さ・深さが必要だが、トロプリメンバー中、精神的な成熟・深みが際立ったこの2人は互いに相手の挑戦を受け止めるだけの度量がある。

 トロプリ15話は伝説的である。歴代プリキュアでも少々の前例があった“入れ代わり”の(ほぼ)1日を通して、ローラによる人間脚渇望の決定的契機となる(これは、11話から描かれてきた、人間社会におけるローラの疎外感の最終帰結だが、ここでは特に触れないでおく)。

 ——ここで問うことができるだろう。なぜローラの入れ代わり相手はまなつでもさんごでもあすかでもなく、みのりだったのか。話のインパクト的には、内向的なみのりと、強気で外向的なローラの入れ代わりギャップが最も映えるということがある(そして、未だ描かれていない一之瀬みのりの家庭事情を描くにも好都合である)が、それにとどまらない深みを蔵している。

 15話の着地点は、依然みのりの体(=人間体)に未練を残すローラと、「私は私のままがいいかな」とローラの人魚体を拒否したみのりの(ある意味)残酷な対比となる。ここで注目すべきは、かねて人魚存在に(たとえ空想と割り切っていたにせよ)憧れていたみのりの口からローラの人魚体(による生活)を否定する言葉が出たことであり、ここにこそ15話の肝がある。元々人魚への憧れを持っていなかったまなつ(まなつは人魚ローラに出会った時、最高の感激を示していたが、みのりのように長きの想念を抱いていたわけではない)、さんご、あすかが「私は私のままがいい(=人魚体に未練はない)」と表明したところで、誰一人驚きはしまい。ずっと人魚のこと(存在)を想い続けてきたみのりにして「私は私のままがいい」の言葉が出たことにより、“突き放し”が強調され、みのり=人間体に未練を抱くローラの思いとの残酷な対比が生じるのである。
 ただし、これは11話から継続して描かれてきたローラの疎外感の文脈でとらえられなければならない。

 (——ここでは私の解釈が強く先行するが——)みのりが人魚の体・体験に喜び・感動を抱いていたことは十分描かれていた。しかし、みのりがローラの体で得た日常体験は、そうした人魚体で得た喜びと釣り合うものではなかった。学校はおろか、住み慣れた家庭でさえ隠れて過ごさなければならず、その人魚体験もただくるるんと共有できたのみの負・窮屈。到底ペイできるものでなく、逆に人間社会に居場所を得たローラとの落差はとてつもなく大きい。人魚体そのものより、(本来の居場所である)人間社会からの疎外に、より強く耐え切れない思いを抱いたのでないか。もし立場が逆で、人魚の国グランオーシャンで普段隠れて過ごす人間みのりがローラと入れ代わったなら、ああまではっきりと「私は私がいい」と言い切ったかどうか。

 16話は図書室でのみのりによるローラの心情看破が鮮烈である。「もしかしてローラも人間になりたいと思ってる?」。ローラと共に過ごす時間が最も長く、常にローラへの大好きの気持ちと言動肯定の態度を隠さないまなつでさえローラの気持ちを読み取れなかったこととの対比で、そのインパクトはさらに強い(しかし、まなつが決してローラをなおざりにしていたわけでなく、トロピカる部の活動でも、人目を避ける必要性と地上での行動能力の制限を強いられるローラのために目一杯の配慮をしていたことは見落とされてはならない)。
 みのりによるローラへの心情看破はいかになされたか? 7話ですでに見せた(今まで読書体験によって培ってきた)洞察力によるものと判断するのは容易い。実際、それで済ませることもできるだろう。しかし、前話15話での入れ代わり回との関連性でとらえてみたい。

 鍵となるのはプリキュア変身に伴う入れ替わり解消とヤラネーダ撃退後、くるるんを抱っこしたみのりによる「ローラ…わたしがローラの分までがんばる」という発言である。ここでは明らかに人間社会での活動を渇望しながらも叶えられないローラの苦への共感理解が読み取れる。恐らくは入れ代わり体験が無くともみのりの鋭い洞察力で『人魚姫』を熱心に読むローラの心情を読み取ることは可能だったろうが、「わたしがローラの分までがんばる」の発言を為させた入れ代わり(人間社会における人魚の居場所の無さの実感)によって、単なる外部理解にとどまらない“共感”の域にまで達しての心情看破と見ることができる。

 続いてみのりによって論じられる代償論は受け取り方が難しい。普段内向的で、くるるん弁当の際の気遣いや、自宅での乙女でロマンチックな日記ないしポエム書きを為した人間とは思えないほど直截な言葉がローラに対して投げかけられるのだ。ローラの人間社会における疎外の苦を知る(洞察する)者ならオブラートに包んで発言しそうなものだが、『人魚姫』との対応で淡々とドライな言葉を連ねるさまは直截が過ぎ、痛烈とも取れるほどに至っている。
 ――ただし、みのりのこの直截さに関して、一つの解釈余地は残っている。みのりがかねて夢想していた人魚存在、さらにはそれを通り越して自身人魚にまでなった体験は決して喜びばかりではなく、すでに触れた通り、(少なくとも人間社会においては)負の側面が目立つものだった。みのり自身の実体験としての、“夢想を実現した代償としての疎外”を語ったものとするならば、ローラに対するシンパシー面が強調され、“きつい”言葉の投げかけという受け取り方から離れることはできる。
 (――本放送時、みのりによる唐突な代償論に視聴者がローラの行く末を心配し、その後人魚態のまま人間脚を獲得した“両取り”した様に、かえって戸惑いの声が多く上がったのも、代償論の下りに取って付けたものを感じたからかもしれない。みのりの人魚体験によるシンパシーと見れば受け入れやすい展開だが、どうあれ、この肩透かしと“両取り”の事実が、最終回での真の代償と直面した際の視聴者に対する心情的伏線となったのは確かだろう。)

 “ロラみの”に着目した場合、16話でこの2人のみが共有し(カップリング観点から)他トロプリメンバーに対して優位性を築く点がある。それは、“空想への眼差し”の共有である。
 ローラの(文学といった)“物語”への態度はトロプリ作中ではっきりしない。次期女王候補で様々な技術・教養を磨いている立場から、決して無縁・無理解ではないだろう。しかし40話でみのりの創作態度に関して「好きじゃなきゃやらないわ、あんなめんどくさいこと。私なら頼まれたって無理!」と、あっさり断じていることから、(“物語”に対して)元々そこまでの志向性を持つ気質ではないだろう(自身創作せず、単に受容のみでも、そうした“物語”の創作物を強く愛する立場ならもう少し慎重な言葉遣いを選びそうなものである。『マーメイド物語』に夢中になったまなつの方の「わたしも無理!」は大好きなローラへの同調面が優ったと見ることができる)。また、すでに触れた7話でのみのりに対する微かな遠い憧憬態度のあり方からも、普段自身で広い読書体験に触れ慣れていないことがうかがえる。どちらかというと、歌、裁縫といった諸々の学芸・技芸の“実践”面に傾いているように思われる。

 しかし、作中およそ“物語”への強い志向性が感じられないローラが16話で手間をかけ、身を晒す危険まで犯しながら図書室で『人魚姫』の内容を調べ直す。無論、15話終盤で自身の人魚尾ひれを見下ろしながらの「うん」によって示された人間脚獲得への決意からの実践上のヒントを求めてのことだが、ここでは確かに(およそ普段のローラの気質からはうかがえない)“物語”への志向性が確かめられる。そして、これはかつて人魚存在への憧れを抱いていたみのりの“空想への眼差し”態度と全く合致するもので、こうしたあり方はまなつ、さんご、あすかの他トロプリメンバーのいずれにも見られない、“ロラみの”のみに認められる(そしてこの2人のみが共有する)ものである。そしてまた、ローラに『人魚姫』の筋を初めて示したのも(その時はまなつとさんごに語っているだけのつもりだったといっても)他ならぬ(4話での)みのり自身である。

 人魚への憧れを抱いていたみのりに対して自身を通じて存在証明してみせたローラ。ローラの人間脚希求への道筋を『人魚姫』物語で示唆したみのり。人間→人魚、人魚→人間、2人の“空想への眼差し”の憧憬・実現が互いに交錯しており、互助を為している。15話での2人の人魚⇔人間の入れ代わりは同じあり方を共有する者同士の象徴的で決定的な契機の到達点と言えるだろう。

 ロラみのからは少し論が外れるが、続く17話でローラが魔女の誘惑を斥け、自身とマーメイドアクアパクトの力によってプリキュアに変身するとともに、ついに人間脚を獲得する“(希求された)空想”の実現が達成されるのだが、キュアラメールへの変身(バンク)の際に数瞬童話絵本調の姿が映るのは『人魚姫』、さらにはトロプリOPの「あこがれよ、ほんとになれ」歌詞との対応から興味深い。

 以降の“ロラみの”は進展が明瞭で詳しく触れるに及ばないだろう。28話の「ローラを真似してみたの」の煽り、40話での転んだみのりに対するローラのフォロー、最終回での「だまれ」……

 ローラが去った夜、眠りにつくトロプリメンバーのうちで唯一目を泣き腫らしたらしきみのりと『人魚姫』――17話ローラの“涙”モチーフの共通は特筆すべきだが。(なお、ここでの一之瀬みのりの泣き腫らした解釈はロラみの研究の大家で、2人の間に多くのモチーフ連関を見出しているネコDog氏による)

 最後に8話のくるるん弁当作りに触れて締めくくりとしよう。「どこに力を入れればいいのか…」と卵割りに難儀しているみのりに業を煮やしたローラがたまらずアクアポットから出て、「こうすればいいんでしょ」とぐちゃっと派手に割って中身を飛び散らせる。「ドンマイ」とするみのり(この「ドンマイ」はみのりによるローラへの初の煽り的反応と見ることもできる)に対して、「あなたは割ることすら出来ていないじゃない!」と返すローラ。(後になるにつれ解消されていくが)思考が先立ってなかなか行動に移れないみのりと、とにもかくにも動いてみせるローラ。この2人の気質が端的に示されたシーンと言えよう。
 “ロラみの”2人は共に独歩、マイペースの生き方である。トロピカった仲間活動を求めて南乃島から出てきたまなつ、過剰な気遣いは3話でさっそく解消されたとはいえ他者への思い遣りが先立つ優しさを持ち続けたさんご、テニス部過去から人間不信に陥ってなお面倒見の良いあすかの3人から、ローラとみのり2人のありようはやや外れているように思われる。(また、2人に特に深く関わるくるるんものんびり昼寝するなど、マイペースである)
 時に辺りはばからず自身のあり方・主張を貫き通すローラと、読書と空想の時間に多く身を置くみのり。マイペースの気質を共通媒介に、なお思考:行動と二極化された正反対の人格同士、互いに相手から自身に欠けたものを受容し合い、ともに精神を成熟させてきた。
 トロプリは友達、仲間同士の出会いとともに過ごす時間の大切さを訴えた素朴なメッセージ性の物語である。ローラとみのり、ともに人格・生き方が極端に振れた2人がそうした素朴さに次第に心を開き、深く心を通わせていく様はトロプリらしく、最高にトロピカっているといえよう。

【補遺――トロプリ:ロラみのの諷喩的解釈について】

 過去文芸部の先輩に作品を酷評されたことによる断筆の様が折れた鉛筆の芯で表され、その後、トロピカる部とプリキュア活動を通じて“折れない心”を養い、最終回EDでの極太鉛筆に至るという風に、一之瀬みのりの成長の軌跡は鉛筆のあり方を通して象徴的に示されている。
 しかし、(心が)折れる/折れないの様相に特に着目して象徴的・諷喩解釈を求めた時、トロプリ作中、全く別の性質でのインパクトの大きな展開描写に行き当たる。12話のアクアポット没収回で初めて為され、以後16話まで人間社会で活動するため行われ続けたローラの尾ひれ直立である。
 失敗して転びでもすれば周囲の人間達に直ちに人魚正体と存在を看破され、大事に至る危険の中、体を支える尾ひれを一度も“折る”ことなしに、17話で人間脚を獲得するまで過ごしおおせた。
 28話の文化祭で自身明言した通り、ローラに負うところが大きいみのりがこのアクロバティックな行動から影響を受けたかは定かではない。しかし、4話時点での“折れて”いた鉛筆との関係が、ほぼ1年後の最終回46話で“折れない”極太鉛筆使用にまで至った過程時期に、ローラの“折れない”尾ひれの強靭な意志と行動力が挟み込まれたのは示唆に富んでいる。

【付】

 トロプリ15話で入れ代わりローラによって朗読された一之瀬みのりの詩文を文庫ページメーカーで特に形を与えてみた。

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