2023.12ちくま12月号「みっともなさの、その先に」

 死のうと思っていた。太宰の短編、『葉』の冒頭みたいに。去年の晩夏、来年の春になったら、そうしようと思っていた。
 それまで何をして過ごそうか。考えてみたけれど、何も思い浮かばなかった。生きるために色々なことを、諦めながら、捨てながら生きて来た。そうしなければ、とても生きては来れなかった。
 子供の頃から死にたかった。その気持ちに初めて寄り添ってくれたのが『人間失格』だった。十八の頃、小説を読んだのはそれが初めてで、以来様々な小説に支えられ、救われて生きて来た。けれどそんな大切なものさえ、自分は捨てようとしていた。
 初めて応募した、三十七回の太宰治賞で一次選考を通過し、喜び勇んで挑んだ三十八回は予選落ち。前回よりも良いものが書けたと思っていただけに、目の前が真っ暗になった。このまま生きていても、いずれおかしくなって世間に迷惑をかけるだけだから、そうなる前に死のうと思っていた。
 春はまだまだ先だった。捨てかけた小説を、私はもう一度拾うことにした。でもきっと、これが最後の小説になるだろう。そう思いながら書いていたのは、子供の頃の思い出をもとにした、ハートウォーミングな物語だった。
 私はそれを書きながら、失ったものを取り戻そうとしていた。殺伐とした都会の暮らしの中で失くしてしまった優しさとか、人を愛する気持ちとか、そういう純粋さを取り戻そうとしていた。ただそれだけを持って、その他の汚れはこの世界に置いて行くつもりだった。
 けれど世間は、そんな私の純な思いを嘲笑うように、私に様々な苦しみを与えてきた。人の迷惑をてんで無視した、人々の傍若無人な振る舞いに、母親とのいざこざに、駐輪場トラブルに、私の精神は日に日に追い詰められていった。
 そんなある日の深夜、執筆中、隣室から突如として大音量のヒップホップが流れてきた時、ついに私は爆発した。
「何時だと思ってんだよクソが! 少しは人の迷惑考えろよ! 何考えて生きてんだよマジで! そんで何だよハートウォーミングってしょうもない、バカか!」
 隣人に対する怒りと共に、はからずもポロッと本音がこぼれていた。はっとした。そうだった。思えば私はその小説を書きながらずっと、何も楽しくなかった。退屈だった。はっきり言って苦痛だった。その事実とばっちり目が合ってしまったからにはもう無理だった。これ以上、心の中のマグマから目をそらすのは。
 だったらこれを書くしかない。この感情を吐き出さなければ自分は完全におかしくなる。締め切りまで一ヵ月半。急遽舵を切り、そうして書き上げたのが『自分以外全員他人』だった。みっともない中年の哀れな叫びの物語。いい歳して何言ってんだ、真面目に働け。そう思われて終わりだと思っていた。それでもいい。最後に思い切り恥と怒りをぶちまけて、この世からおさらばするつもりだった。

 あれから一年、捨てるはずだった命を、私は生きている。こんなダメ人間の小説を、認めてくれた人たちのおかげで。みっともなさの、その先にあった人生を。窮屈だと思っていた世間は、角を曲がると案外広かった。一か八か、思いきって恥もさらしてみるものだ。
 けれど夢が叶ったからといって、それですべてが満たされるわけではなかった。不安や後悔や苦しみは、生きてる限りいつまでもついてまわる。自分やこの世界が嫌になって、死にたくなることもある。それでも私は生きることにした。書きたいことがある限り、それを認めてくれる人がいる限り。ふと見た夜空に煌々と星が瞬くように、人生も捨てたもんじゃないと、そんな月並みなことを思いながら。


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