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長崎猫童話・あるとらねこの物語

長崎猫童話 春
あるとらねこの物語

 中島川沿いの、石橋がいくつも並んでいる辺り。
 苔むした石橋や、あたりに住んでいるひとたちが育てている緑や花々が美しいその辺りに、きじとらのとら子は住んでいました。
 猫が好きなひとたちになでられ、ご飯をもらい、軒下や植木鉢のそばに寝床を用意して貰ったりしながら、気がつくと年をとり、すっかりおばあさんの猫になっていました。

 とら子にはたくさんの素敵な寝床がありましたが、いちばんお気に入りの場所は、教会の庭でした。そこには一本の古い桜の木が植えられていて、とら子の寝床はそこに置かれた籐のかご。毛布にくるまれて眠ると、空からはらはらと桜の花びらが降ってきて、とら子は飽きずにそれに見とれるのでした。
 ときどき、窓の方から、オルガンの音や、教会に来るひとびとがうたう声が聞こえることもありました。「お祈り」をしたりもしているようでした。お祈りというのは、とら子にはよくわからないことなのですが、「かみさま」は一生懸命にお願いをすると、不思議な力で願い事を聞いてくれるらしいのです。
 ずっと前に、とら子が病気になったとき、牧師さんが獣医さんに連れて行ってくれて、そんな話をして、「お祈り」してくれました。
 とら子の病気は治ったので、「かみさま」は本当にいるのかも知れない、ととら子は思っています。
 こうして春の空を見回してみても、どこにもそれらしい姿は見えないし、長生きしても、一度も会うことはないままになってしまいそうですけれど。

 さて、とら子がうたた寝していると、通り過ぎるひとたちは、「かわいい」「かわいいねえ」なんて声をかけてくれて、そんなとき、とら子はありがとう、の想いを込めて、目を細くして笑ったりするのですが、とら子の方でも、人間たちを見ると、「かわいい」「素敵ね」なんて思っていたりするのでした。
 特に、馴染みの商店街や通りを、いつも通る子どもたちとか。雀の雛の群れのように、きゃあきゃあ騒いだりはしゃいだりしながら、通りを行く小さな子どもたちは、とら子の目には、特に愛らしく見えたりもしました。ましてやその子たちが猫好きで、「ねこちゃん」「とら子」なんていって駆け寄ってきてくれたりしたら、子どもたちに寄り添い、その顔や手をなめてやらずにはいられないというものです。
 そもそも猫は、ひとよりも早く、おとなになり、年老いてゆくもの。おとなになるのに長い長い時間がかかる人間の子どもたちは、我が子や孫みたいに見えてしまうこともあるのでした。
 そんな子どもたちの中に、ひとり、特に気になる子どもがいました。
 近所の子どもたちよりも、小さく、か細くて、友達にふざけて押されても泣いてしまうような女の子です。背中に背負っているランドセルがいつも大きく、重そうに見えました。みんなのうしろから少し遅れて、隠れてついてくるような、そんな女の子です。
 けれどその子は、子どもたちの誰よりも、とら子をなでるのが上手でした。
 子どもというのはどうしても、猫をぬいぐるみのように扱いがちで、愛情がこもっていても、正直乱暴ななで方になるものです。
 でもその女の子は、そっとそっと、とら子が痛くないように、気持ちいいように、優しく撫でてくれるのでした。
 学校帰り、友達と一緒の時以外も、女の子は、街のいろんなところにいるとら子を探して、訪ねてきてくれました。
「とら子がうちの猫になってくれればいいのになあ」
 女の子がそういったことがあります。
 あれは何年か前の冬の夕方。とら子をぎゅうっと抱きしめて、女の子は、さみしそうにいったのです。
「わたしが住んでいるマンションは、猫を飼ってはいけないお部屋なの。ママは、『とら子は街のみんなにかわいがられているから幸せなのよ』っていうけど、そうなのかな、ってわたしは思うの。——ひとりぼっちでお外にいるのは辛いよね。さみしいよね」
 とら子は何もいわないで、女の子に頭をこすりつけました。
「うちはパパもママもお仕事の帰りが遅くなるときがよくあるの。そんなときね、おうちの中にいても、怖くてさみしくなるもの。ひとりぼっちは、辛いよね」
 とら子は女の子の細い首に寄り添い、抱きしめるようにすると、頭を何度もこすりつけました。その日はとても寒い日でした。女の子が少しでもあたたかくなるように、とら子は小さな腕で、女の子を抱きしめたのです。

 そして、今年の春の宵。
 雨上がりのその午後も、あの女の子はとら子を訪ねてきて、何度も撫でて、ぎゅうっと抱きしめてくれました。
 最近のとら子は、ほんとうに年をとって、動くことも面倒になってしまい、教会の庭にいることが多くなってきたのですが、女の子は、とら子と一緒に桜の花びらの雨に打たれ、髪や肩の上に花びらを載せて、「またね」と帰って行きました。
 雨上がりの濡れた石畳に、足を滑らせて、転びそうになり、危うく立ち直ると、へへへと笑って帰って行きました。
 女の子は最初に出会った頃よりも大きくなって、もうランドセルは背負っていませんでしたけれど、でも、か細いのも、小さいのも、幼い日のままに見えました。
 とら子は、思いました。
 またね、とあの子はいうけれど、自分はあとどれくらい、あの子に会うことができるのだろう、と。
 人間は大きくなるのに時間がかかるから、あの子がこの先しっかりしたおとなになるまで、自分が生きていられるとは思いませんでした。
 あの子はあんなに小さくて、他の子よりも弱々しくて、大丈夫なのかな、と思いました。
 とら子がいなくなれば、あの子が、ぎゅーっと抱きしめる猫は、いなくなります。あたためてあげる猫も、いなくなります。
 あの子はあんなにさみしがりやなのに、とら子がいなくても大丈夫なのでしょうか。

 雨上がりの教会の庭の桜の木の下で、年老いた猫は目を閉じ、ふと、「かみさま」に「お祈り」をしてみようと思いました。
 この先、自分がこの街にいなくなっても、あの優しい女の子が元気で幸せでいられるかどうか、わたしに教えてください、と。
 できることなら、一目でいい、大人になって、元気にたくましくなったあの子の姿が見たいです、と。
 その「お祈り」が叶うなら、自分はいますぐ死んでしまってもかまわない。
 猫はそう思ってぎゅっと目を閉じました。
 風に桜の花びらが舞って、とら子に優しく降りかかりました。見えない誰かの手がふれるように。

 気がつくと、とら子は、教会のすぐそばの石橋の上にいました。
 おや、自分はいつの間に、こんなところにいるのだろう、ととら子は首をかしげます。
 夢をみているのかと思いましたが、濡れた石畳を踏みしめる足の裏は冷たくて、これはどうも、ほんとうのことのようなのでした。
 街路樹の柳の木は、黄昏の空気の中、柔らかに春の緑色の葉と枝を揺らし、とら子は春が来るたびに見ていたその様子に、見とれました。
 雨上がりの空は、洗われたように美しく、いっぱいの光に満ちていました。
 そのときでした。
 石橋の向こうから、小さな女の子がランドセルをしょって、急ぎ足で駆けてきました。
 ああ、あの女の子だ、ととら子はかすむ目で思いました。
「ねこちゃん」
 女の子は笑顔でそういうと、両方の手を伸ばして、とら子に駆け寄り、抱きしめようとしました。背中でたぷたぷと音を立てて、ランドセルが揺れます。
 とら子は不思議に思いました。
 あの子はもう大きくなって、ランドセルは背負わなくなっていたと思うのに。
 そう、駆け寄ってくるその女の子は、たしかにあの女の子なのに、さっき会って別れたばかりのあの子よりも小さくて、か細いように見えました。
 ふと女の子が、濡れた石畳に足を滑らせました。あっ、と小さく声を上げて、倒れそうになります。
 とら子は思わず駆けだして、女の子のからだの下に身を投げだしました。
 優しくて小さなその子が、怪我をしないように。濡れた石畳で汚れてしまわないように。
 小さな、けれど老いたとら子にはずっしりと重いからだを受け止めて、とら子は石橋の上に横たわりました。
 弾みで捻った足が痛くて。下敷きになった胸とおなかが苦しくて。
 けれど、女の子が、とら子を抱きしめて、猫ちゃん、猫ちゃん、と呼んでくれたので、とら子は、目を閉じ、もういいや、と思いました。ただできれば——猫ちゃんではなく、いつものように、とら子、と呼んでくれればいいのに、と少しだけ思いました。
 とら子は、女の子が自分の名前を呼ぶときの、優しい声が好きだったのです。

 そのときでした。
「まあ、どうしたの?」
 どこか懐かしい声がして、優しい、良い匂いの手が、とら子を撫でてくれました。
 小さな女の子が、そのひとをママ、と呼びました。自分がころんだこと、とら子が下敷きになったことを、涙声で、話しました。
「猫さん、ありがとうねえ」
 女の子のお母さんはそういうと、そっととら子を抱き上げました。痛くないように、そっとそっと優しく抱き上げてくれたのです。
「病院に行きましょうね。念のためにね」
 女の子のお母さんは、とら子を胸元に抱いて、ゆっくり歩き始めました。
「懐かしいなあ」
 ふと、いいました。
「ママね、昔、子どもの頃、仲良しの猫さんがいたの。こんな風に抱っこしたりしたのよ」
「お友達だったの?」
「うん。いちばんのお友達だった。でもね、今日みたいな春の日に、いなくなってしまったの。猫は死ぬときに姿を消すっていうから、どこかで死んでしまったのかも。ママ、さみしくて、ずうっと猫さんのこと探してたのよ。でも、どんなに探してももう会えなかった」
 お母さんがとら子を抱く腕に、少しだけ、力がこもりました。
「この猫さんとおんなじきじとらでね、おばあさんの猫で。とっても優しかったのよ」
「また会えたら良かったねえ」
「そうねえ。ママ、神様に、もう一度友達に会わせてください、ってお祈りしたんだけどね。一生懸命お願いしたんだけど、ママ、あんまりいい子じゃなかったからかな、神様、お願いを聞いてくれなかったの」
「え——。神様って意地悪だね」
 お母さんは笑いました。
「ふふふ。ママもちょっとそう思ったわ。なーんて、神様には内緒」
 お母さんはそういうと、立ち止まり、人差し指を口元にあてて笑いました。女の子も同じ仕草をして、笑います。
 お母さんは、また歩き出して、ゆっくりと橋を渡りました。とら子に話しかけました。
「あなたもおうちのない猫なのかしら。だったら、もしよければ、うちの猫になってくれたら嬉しいな。もうずうっと長いこと、わたしは、ぎゅーっとできる友達が欲しかったの。この子も、そういう友達がいると幸せだろうって思うわ」
 ついでにいうと、うちの旦那も、すごい猫好きなのよ、と明るくお母さんは笑いました。
「うちは犬や猫も暮らせるおうちだから、安心していいのよ。昔ね、猫と暮らせないマンションに住んでいたから、大好きな友達をうちにつれて帰れなかったの。毎日、どんなに悲しくても、お別れが寂しくても、あの子とさよならをしないといけなかったの。
 もう二度と、友達とさよならしないでいいように、大きくなったわたしは、猫と暮らせるおうちに住んでいるの。絶対そんな家が良いって、頑張って買ったんだもの」
 とら子には人間の言葉が話せません。だから、かわりにお母さんの顔を舐めました。
 お母さんは微笑んでいいました。
「ああ、懐かしいなあ。子どもの頃の、大好きな友達を抱っこしているみたい。
 ねえ、あなたのことを、とら子って呼んでいい? 大好きなあの子の名前で」
 とら子は、両手でぎゅうっとそのひとの首と肩を抱きしめました。遠い日に、そのひとが大好きだった仕草で。のどを鳴らして、そのひとの首や肩に、顔をこすりつけました。
 黄昏時の空には、どこからか飛んできた桜の花びらが、はらはらと舞っていました。

(おしまい)

いつもありがとうございます。いただいたものは、大切に使わせていただきます。一息つくためのお茶や美味しいものや、猫の千花ちゃんが喜ぶものになると思います。