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帰りたかった子どもの話

いつも、帰りたい子どもでした。

親が自衛官でしたので、数ヶ月から一年くらいで次の街、また数ヶ月から一年で次の街、というような、引っ越しばかりの子ども時代を過ごしました。
小さい時からそんな暮らしだったのですが、幼心にもどこか落ち着かない、寂しい日々だったような気がします。

特に、物心ついてからの最初の引っ越し、入学した小学校が千葉県で、二年生から九州に転校、というのが子ども心に辛かった。
一年生のときの担任の先生にとても可愛がられていたこともあって、その頃の私は学校大好きでしたし。
空路の引っ越しのために両親に連れられて訪れた羽田空港を、泣きたい気持ちで歩いていたこと、飛行機に胸が潰れるような想いを抱えて乗ったことを覚えています。

窓の外には、どこまでも続く遙かな空と青い海が見えて、その美しさよりも、飛んでも飛んでも目的地に着かない、遠い距離がひたすら悲しくて。
いつかきっと飛行機に乗って、元来た街へ帰ろうと思っていました。

それはどこか、祈りに近い願いというか。
一年生には飛行機の距離の移動は、果てしない遠さで、自分の力ではなし得ない難易度の高い空の旅で。
だから魔法や奇跡を待ち望むような気持ちで、また空を飛んであの街へ、あの学校へ帰りたいと思っていたのだと思います。

転校先の、九州のある街の小学校の、担任の先生には不幸にして馴染めなくて、私は学校が嫌いな子どもになりました。
一年生の時の担任の先生と、その先生と。どちらも女の先生だったのですが、キャラクターが違っていて。
千葉の先生はいつも笑顔で優しくて、ふんわりと抱きしめてくれて褒めてくれて、けれど叱るときは叱る、といういま振り返っても理想的な小学校低学年の先生で。
一方、二年生の担任の先生は、やたら声が大きくて、喜怒哀楽が激しく、歩くのが遅いと背中を突き飛ばす、というワイルドな先生でした。怖かったのを覚えています。
たしか日に焼けて、いつもジャージ姿だったような記憶がありますが、その辺はもしかしたら、記憶に演出が入っているかも。

これは、当時の私視点の記憶で、思慕と恨み辛みは加算されているかと思います。
それと、子どもと先生にも相性があって、私のようなタイプの子どもと向かい合うのがうまい先生と、そうでもない無器用な先生がいたのではないだろうかと今は思います。

当時の私は、お利口さんな代わりに繊細な傷つきやすい子どもでした。こう書くと優しい良い子のようですが、賢さの分だけ周りの子を馬鹿にしがちな歪な傾向もありました。
一年生の時の先生はそんな私の良さを見出し、いつも目の端に止めて優しく褒めつつ伸ばしていこうとしてくださっていたわけですが、転校先の先生は、きっと根がシンプルで大らかで、子ども達とぶつかりあって、太陽に向かって走るような日々を送りたかったのではないでしょうか。
…大人になった今でも、私はそういうタイプのひとは苦手だなあと今思いました。やっぱり相性が悪かったのでしょう。

とにかく学校が嫌で悲しくて、千葉に帰りたいなあ、とずっと思っていました。
その後、三年生で神奈川に転校して、ここでまた素敵な担任の先生(笑顔が素敵で歯が白い先生でありました)と出会い、学校がまた楽しくなって、という繰り返しを、高校で長崎に落ち着くまで、全国を転々としつつ、延々と繰り返したのでした。
そんな中で、中学校はまた千葉の学校でそこがまた楽しかったりしたので、楽しい記憶の多い関東でも、千葉はやはり私にとって特別な街になっています。

大好きだった街があり、生きてゆくだけで必死なくらいに合わなかった学校があり、そんな繰り返しの中で、小学校中学校と、いつも転校生だった訳で。
そうそう、当時良く、名前よりも、「転校生」と呼ばれていました。その呼び方に慣れていましたね。

図書館と学級文庫が命綱で、読みかけの本の続きを借りて読むために、学校に通っていました。本がいちばんの友達で、のちに子どもの本の作家を目指したのも、あの頃の自分のようなさみしい子どもたちのために、面白い本をたくさん書きたかったからです。

いつも、帰りたい、と思っていました。
楽しかった街に帰りたい。優しい先生や友達のいる場所に戻りたい、と。

転校生だった頃、転校したことのない子から、うらやましい、といわれたことがありました。
「だって、いろんな街で友達が出来るじゃない?」
実際、同じように転勤族の父を持つ、いわば転校生仲間には、転校先で溶け込むことがうまい子たちもいたのです。
速攻で転校先の方言を覚えるとか、溶け込むための技術そのいちですね。
言葉が違う、というのは、いつもトラブルの元になりました。
でも私にはそれはできなくて、ずっと好きだった街の言葉を使っていました。
それがつまり、千葉や神奈川の、関東の言葉で、だから今も私は、それ以外の言葉は使えません。

引っ越しの繰り返しの中で育ってきた子どもにとっては、故郷と呼べる街はなく、かりそめでも愛着を感じた街の想い出が、いつか故郷の想い出のように大切なものになっていたのだと思います。
だから故郷の言葉を大切にするように、私はずっと、どこへ行っても関東の言葉を使い続けてきたのでしょう。

子どもの頃の辛い経験は、大人になると得がたい宝物になるから、と俗にいいます。
今の私は作家になったので、様々な経験や記憶が、たしかに役に立っているところはあります。
世の中の見方その他、あの日々があったから、素地が出来たところもあります。
それと、子ども故の純粋な優しさや醜悪さと出会う機会が多かったことは、たしかに望んでもそうそう得られない、お金では買えない経験だったでしょう。
人間というものは、自他ともに弱く、時に強く、優しくもあるのだとあの日々を通して知ったような気がします。
友達はいれば楽しいけれど、いなくても大丈夫だということも。
そして、集団でいるときの人間と、個々の人間とでは違うこと。
人間関係は多く土地や環境に左右され、つまりその地を離れれば消滅する、さして意味のないものだということも。
絶対的で普遍的なものは少ないのだと、あの頃に知ったような気がします。

思えば、仕事が辛くて多少大変なことがあっても、いつも乗り越えることが出来るのも、あの頃の苦労よりはマシだと思えるからかも。

でもなあ、と思うのです。ひとつところで、できれば相性が良い土地や学校で、毎日笑って、たまに友達と喧嘩したりしながらも、のびやかに育つことの出来た自分の書いたものも読んでみたかったな、と。

時を経て。
今長崎市で作家をしている私は、打ち合わせなどがあるたびに、飛行機に乗って羽田空港へと向かいます。
あの頃あんなに遠く感じた、関東と九州の間の空の旅が、今はうたた寝している間に終わる、日常のひとつになりました。
用事があればひょいと飛行機に乗るので、自分が年に何回空の旅をしているのか、ここ数年は数えることすらしなくなりました。

千葉へも神奈川へも、その地の書店さんを訪ねるために足を運んだりします。
心のふるさとなんですよ、という話をしたりします。
千葉の、小学校と中学校で入学した学校の方達には、その後、先方からお声掛けいただいてやりとりをしました。いろんな機会で思い出話をしたりしていたら、届いたようで。
どちらの学校も、入学しただけで卒業はしていないのですが、卒業生のように思っていただけているようです。
当時、図書館に私の本を置いてくださっていたようですが、もしかして、今も棚のどこかにあるのかしら。あったら嬉しいなあと思います。

大人になった今、思い返すのは。
小学一年生だった頃、私のことを慈しんでくださった担任の先生のことです。
お利口さん、あなたは本を読むのが上手、といつも褒めてくださっていた先生の記憶があったから、頑張れたのではないかな、と今更のように気づいているのです。

あれからどんなにひどい先生に出会っても、時としてろくな扱いを受けなくても、幼い日にあなたは良い子だと抱きしめてくれていた存在があったから、大丈夫でいられたのかなと。

さかい先生。
ありがとうございました。
たぶんいまも、私の心の中にあなたはいます。

いつもありがとうございます。いただいたものは、大切に使わせていただきます。一息つくためのお茶や美味しいものや、猫の千花ちゃんが喜ぶものになると思います。