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読み手のチカラ

こんなことを私が言うのは、大変大変おこがましいのですが、晩酌の酔いを借りて申し上げます。

私がおそるおそる描いた漫画「夕凪を写しに」と続編の「満ち汐」に、深い思いを寄せてくださったみなさまに、まずは菓子折り持ってお礼の挨拶に伺いたい。
心の中では、お一人お一人のお名前やアイコンに向かって、頭を下げてまわっています。
本当にありがとうございます。

おこがましいことを言います。

ある作品に共鳴するのは、その人の感性が、絵なり文章なり写真なり物語に、ぴったり合っているから、と言えるでしょう。
ピカソの絵とルノアールの絵、どちらに感じ入るかは見た人の好みによります。

どちらも好きだ、どちらもピンとこない、いろいろあるでしょう。

私はクリムトの絵も、弟子のエゴンシーレの絵も、どちらも好きですが、額に飾りたいのはクリムトで、棺桶に横たわったとき抱いていたいのはエゴンシーレです。

つまり、人様に向けて、私この人の絵が好きなのよと無難に見せたいのがクリムトで、誰になんと思われてもいいから身につけていたいのがエゴンシーレ、ということだろうと思います。

描き手の立場に転じて言うと、私の場合、「あさひとゆうひ」はクリムトです。
「夕凪」はエゴンシーレ。

あさゆうは、どこに出しても恥ずかしくない、全年齢向けの漫画として、読む人の目を大いに意識しながら描きました。
5年前の当時、comicoという漫画サイトにチャレンジ投稿していて、途中からはありがたいことに毎話100以上のコメントが寄せられるようになり、そのみんなの意見に寄り添う形で連載を続けていました。
本当にあったことを描いていたので、事実をまったく曲げるわけではないけれど、より読者にウケがいいように、セリフや間合い、表情などを工夫していました。
いいところだけが抽出された、アニメ「おそ松さん」でいうところの神松的な漫画です。
「寝るところはある。着る服はある。これ以上なにを望むっていうの?(キラキラ)」

一方、夕凪2作は、完全に私の内部から生まれた漫画です。
読者の目を意識する余裕はどこにもない。
描きたいことを、ただ描きたいように描きました。
人様に向けてガードしている皮膚を破り、肉と血をさらけ出して描いたものです。
大袈裟に言ってますが、わりと本気でそうです。

はっきりと一般受けしないテーマ。
共鳴されにくい内容。
それを承知で描きました。
読者を想定せずに描きました。

だから。

「よかったです」
「こういうの好きです」
「続きが読みたいです」

なんていう感想を各所でいただいたことは望外で、そんなお言葉を投げかけられて初めて、ひやーーー!と顔面赤くなってしまうのです。
見た?私の内部見た?見ちゃった?キャーーー、ハズカシ!となるわけです。
自分から見せておいて。

カテゴリーに分けるのが私は不得意だし、そんなのなくていいんじゃない?とも思ってるんですが、夕凪は「女性向け」の「BL」に属するのだろうと思います。
それで私も特に異論はないのだけれど、そんな漫画を読んでくれた異性愛者の男性が、感銘受けたと言ってくださるなんて、もうもう、私には夢のような話なんです。
本当ですか、嘘じゃないの?
こんなことがあってもよいのか!

先に挙げた、自分の感性に似通った作品に共鳴するという話。
それにはもうひとつ追加があって、これを言うのはさらにおこがましいのですが、読み手の能力、見る人のチカラ。
共鳴にはそれがすごく大きな要素を占めると思うんです。

漫画も詩も小説も、ただそこにあるだけなら、白い紙に描かれた絵や文字に過ぎません。
赤ちゃんが見たって書かれた意味はわからないし、作品に込められた想いも汲み取りようがない。

人生を通して様々に喜び、傷つき、死を思ったり、誰かに慰められたり、そういうことをひとつひとつ、忘れずに心の中に生かしている人こそ、ふと出会った一枚の写真の前で直立不動したり、一編の詩に涙を流したりできるのだろうと思います。

夕凪のような、ああいうテーマの、決して読みやすくない、上手なわけでもない漫画に、心を寄せてくださった方。
あなたのアンテナはピカピカに輝いている!

それが言いたかったことです。

この漫画を公開したことで、実は私にとって息が止まるほどに感極まる出来事を体験したのですが、そのことについてはタイミングを見て、また書かせていただきます。
ミラクルな赤い糸の話です。

あー、酔いが覚めた。

生きるっておもしろい。
本当におもしろいなあと、最近つくづくそう思います。

しあわせだなあ。

最後まで読んでくださってありがとうございます。あなたにいいことありますように。