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私と猫

明日は「猫の日」noteを開始して初めての猫の日なので、「私と猫」というお題目で書いていきます。

子供の頃から生きもの好き

田舎出身の私は、幼稚園の頃から生き物が大好きで、畑の土を掘り返してミミズや虫の幼虫などを平気で持てる少年でした。

小学生になってからは、学校で飼育されている金魚や小動物のうさぎ、ニワトリ、シチメンチョウなど観察が楽しくて、小学3年生には生きもの係も経験しました。

学校で飼育されていない動物たちは、動物園や養豚場、鶏舎など行って観察したりしていました。

そして、犬は友達の家で飼育している犬と遊んだり、猫はのらちゃんを遠くから観察して、近寄って仲良くなったり、今思い返してもどの時代も生きものに積極的な思いを寄せていたんだなと思いました。


初めて猫を飼ったときのこと

そんな生きもの好きの少年が猫を飼ったときのお話です。
私が小学6年生のとき、かれこれ31年程前に遡ります。

妹がのらちゃんに餌やり

私には3つ下の妹がいるのですが、妹もどちらかというと生きものが好きで、家の庭先にたまに遊びにくるのらちゃんと仲良くなりたくて、牛乳を置いて誘っていました。

(注意:また今度詳しく下記ますが、牛乳を猫に与えることはあまり良くないですし、無秩序な餌やりもよくないことですが、子供のときはわかっていませんでした。)

のらちゃんが居着いた

ある日、1匹の白い猫が牛乳を飲みにきていて、その翌日も、またその翌日も、、、

そのうち、母屋の離れの納屋に出入りするようになり、天気が悪いときは納屋にキャットフードを置き、いつしか居着くようになっていました。

妹はその猫に「たま」と名付けました。性別はメス。

4匹の仔猫が誕生

季節は秋。

残暑がまだしんどい9月に、納屋に行ってみると奥の藁を積んでいる(昔農家の名残で藁が大量に積んでありました)隅の方から、小さく細い猫の鳴き声が複数聞こえてきました。

妹と私は、まだ小学生。

とてもワクワクしながらその鳴き声に近寄ってみると、たまが4匹の小さな仔猫を抱えるように横たわっていました。

その時ときの気持ちは、新しい命の誕生に感動というより、二人で好奇心の目で観察していました。

辛い、大泣きした日

うちの家では、私が幼稚園の頃まで、米農家と養豚の畜産農家を小さく営んでいました。

家族の大人たちは、生きものの「命」については重く考えていたと思っていたのですが、、

仔猫を内緒で育てていた矢先、おばあちゃんに見つかってしまいました。

まだあまり良くわかっていない小学生の二人でしたので、たまも含めて5匹飼いたいと言ってもダメだの一点張り。

両親に懇願するも、「すぐ保健所持っていく!」と言われ、次の日に仔猫4匹はダンボール個に入れられ保健所に連れて行かれました。

辛くて辛くて、妹と二人で号泣したことを思い出します。


昔の時代背景

おばあちゃんは第二次世界大戦開戦の8年前に生まれた、戦争経験者です。

当然ですが、その当時の日本は人々が生きていくことで精一杯で、1日1日が生きるか死ぬか、そんな時代でした。

自分たち人間以外の動物のことは優先度がずいぶん低いわけです。

猫は家畜

終戦を迎え、日本人みんなが荒れ果てた日本を再生しようとしている時代。

猫はペットではなく、家畜として扱われていました。

人間の主食となる米などの食料がねずみに食い荒らされてしまうと、戦後直後には死活問題なわけです。

そのとき猫をねずみよけの家畜として最低限の食料だけ与え飼いならしていました。

家畜以外の猫は…

そして、のらちゃんとの間に仔猫が誕生するわけですが、今のように動物愛護センターという施設もないので、誕生した仔猫は目も開かないうちに近くの川に投げ捨てていたという話を聞かされ衝撃を受けました。

家畜という、人のために遣われる猫以外は、人の食料を奪ってしまうので捨ててしまうということです。

そういった時代背景を経験してきたおばあちゃんとその教育で育った父親母親世代は、動物を飼うことや命の重みの価値観が全く違っていたということでしょう。


私の中で何かが激しく燃えた

小学生ながら、こんな悲惨な思いをし、でも、自分と妹にはどうしようもできない無力さから、小さな命を救えなかったことで谷の底に打ち付けられたような悲しさから何も手につかなくなった1週間。

その後、何かよくわからない怒りのような感情なのか、心の奥で激しく燃えているような感情に襲われました。

ただ、その思いは今となって、やっと自分自身が理解できたことであって、当時は意味がわからずにいたと思います。


1年の間に2度3度…

たまは、1年の間に2度3度と仔猫を産みました。

そのたびに、親たちは保健所に連れていきました。

まるで、「今日はゴミの日」のような淡々とした感じでダンボールに入れて連れて行くのです。


たまの子孫

たまが産んだうちの1匹とたまが一時期行方不明となり、1ヶ月後くらいに大きくなってたまと戻ってきたことがありました。

大きくなってしまったということで親は保健所には連れて生きませんでした。

その猫(メス)に妹は「チャーミー」と名付けました。


またもメス

たまが寿命を迎えたのか、いつしかどかに行ったきり戻って来なくなりました。

チャーミーは、たまの意思を継いだかのように、うちに居るようになっていました。

歴史は繰り返します。
チャミーもまた、年数回妊娠をし仔猫を産みました。

親たちは、保健所につれていくことに限界を感じ、もうこの時点では放置して感知しないようにしていたと思います。

誰もが不妊手術のことなど知らずにいました。


チャーミーの子孫

チャーミーが産んだある一匹の三毛猫が、母の実家で迎え入れてくれるということで里親に出しました。

その後は、私が高校を卒業し上京したので、あまり詳細はわかっていないことが多いのですが、チャーミーの別の子孫が1匹と一緒に実家で飼っているということを聞きました。


長生きチャーミー

チャーミーは16年程生きて、最期は乳がんで亡くなりました。

私が首都圏にいたときに親からの連絡で知りました。


大和

チャーミーの子孫で一緒に暮らしていた猫は「大和」という名前が付けられていました。

私は2013年に一度首都圏から実家に戻り6年程生活していた時期がありましたが、大和は私が戻ってまもなくして亡くなりました。

亡くなる少し前から体調を崩し、動物病院につれて行って検査をしたところ、「猫エイズ」が陽性だったのです。

おそらく、猫エイズが原因だったと思います。


たまの子孫は絶えた

大和が亡くなり、先代たまの子孫は母親の実家に居る三毛猫のミケだけとなりました。

2016年9月に母方のおじいちゃんが老衰のため亡くなったのですが、ミケはその1ヶ月後くらいに後を追うようにして老衰で亡くなったそうです。

ミケは母方の実家のみんなに愛され、おじいちゃんとおばあちゃん穏やかにいつも可愛がっていました。

おじいちゃんの側にいつも居たミケはずっと一緒に居たかったのかもしれません。


新しい家族

うちの実家では、大和が亡くなってから「もう猫は飼わない」と親が言い、飼う予定はありませんでした。

2015年の5月、私の友達の家の納屋にのらちゃんが仔猫を産んだということで、一時的に2匹を保護し里親探し前提で迎え入れました。

その猫が、今一緒に生活している「とら吉」と「くぅ」です。

じつは里親探しとは、親のを説得するための名ばかりで、実際は一緒の家族として引き取ったのです。

とら吉とくぅのお話は、以前の記事でお話しましたので、続きのように見ていただければ幸いです。


私にとっての猫「とら吉」と「くぅ」

私も猫も同じ生命あるもの。

どちらに優劣があるわけではないし、自分が幸せになるための存在ということにイコールともなりません。

お互い癒やし癒やされ、共に生きていくパートナーです。

ただ、ペットとして人間社会で生きる動物なので、人間が猫のことを手助けすることが必要です。

人間社会で共に幸せに生きて行くために、人間にお付き合いしてもらうために。


小学生に感じた何かが激しく燃えた想い

大人になって、とら吉とくぅを迎え入れてから、小学生のときに感じたあの感情が心の底から溢れ出てきた日がありました。

この日、過去にわからなかった意味がやっと理解できたのです。

そう、悲惨な猫たちを何とか助けたい!
悲惨な猫たちを増やさないようにしたい!
もっと、人間社会に家族として受け入れられる世の中であってほしい!

そんな想いから、今の私の動物愛護に対する考えがつながっているのです。

私には今2歳4ヶ月の子供が居ますが、自分と同じような想いを子供にさせてはいけないと強く思い、動物の命の大切さを子供に教えることもしていきます。

とら吉とくぅと一緒に育って、弱気者の痛みがわかる大人になってほしいを思っています。

自分の子供だけではなく、日本の教育の一端でも、動物愛護の観点で変えて行きたいとも考えています。



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