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【短編小説】 ノートに記すのは


 春と風で形容されるなんて不思議な人ねと瞳は言った。
 妻のことをどんな人かと聞かれたから、季節で言えば春、もしくは風のような人だよと答えたら、奥様にも興味が湧いたけれど、奥様をそんな風に形容する貴方にも俄然興味が湧いたわと言い、女物の上質なビジネスバッグから、ノートを取り出した。
「メモを取る程のことかい?」
 あからさまに、取材でもされそうな勢いにたじろいで、店内用のマグで提供された目の前の熱いコーヒーを早々に飲み終えて、さっさとオフィスに戻りたいところだが、そうはいかない猫舌の自分を少し恨む。
 オフィスビル2階のスターバックスコーヒーに寄ったのは、大型の商談がまとまって、肩の荷が降りたからだ。
 ランチには遅い、カフェには早い、絶妙な時間帯で、珍しく空いている店内に吸い寄せられるように立ち寄ったら、同期の大河原瞳が1人窓際で、何やら甘そうな春の新作らしきフラペチーノを飲んでいた。
 彼女は外商部のスターで、女だてらに同期の出世頭だ。
 こんな時間にゆっくりお茶出来るのも、彼女の立場ならではだ。
 自分にとってのささやかな贅沢を、日常的にしているのだろうかと、少し嫉妬の気持ちが生まれる。
 彼女は胸元から取り出した、一目見て高級だとわかるボールペンをことりとテーブルに置き、
「そうよね」
 と言って、フラペチーノに戻った。
「もう仕事も辞めるのだし」
「えっ?」
 聞けば、部下が大きな発注ミスをしてしまい、決裁者である自分の責任も問われるだろうとの事だった。
「いつ何に役立つか分からないからと、こうやって何ひとつ洩らすまいと書き留めて、ガツガツ仕事してきてしまって、いざという時に弱音を吐ける相手もいないのよ。夏のような人も、雨のような人も」
 今聞かされているこれは弱音や愚痴に当たらないらしい。
 それは、あくまでも進退について決定するのは自分自身の意思であって、決定事項を口にしただけという認識なのだろう。
 というのも、聞いた損失の額が、到底サラリーでは補填出来ないような高額で、口にしかけた軽い慰めの言葉を引っ込めた。
「お前が辞めたらみんな困るだろう」
「それはないわ。今まで誰かが退職したり亡くなっても、世の中はちゃんと回っているでしょう。会社とはそういうものよ」
 そう思っていて、なお、ガツガツ仕事して出世を望むような意欲はどこから出てくるのかと問うたら、後輩に迷惑かけられないでしょ、あたしが諦めれば、だから女はって言われてしまうのだからと、さも当たり前のように言い切った。
 自身はそんな風に考えて仕事に取り組んだことがあっただろうか。
 むしろ、家庭にあって、家事が上手くこなせないと、これだから男は、などと言われかねない。
 彼女の物言いに、埋められないジェンダーの差を肌身に感じる。
 その時、彼女のスマートウォッチが小さく鳴ってメールの着信を知らせた。
 彼女はメールをサッと確認してため息をつく。
「しまった。スポーツジムの解約早まったかな。どうやら首が繋がったみたい」
 詳細は伏せたが、どうやら彼女の手がけた、さっき聞いた損失の約7倍の利益を生む契約が成立したらしい。
 その金額の多寡に震えを覚える。
「お前さ、スタバとかじゃなくてもっと3千円くらいするパフェ食えよ。千疋屋とかタカノフルーツパーラーとかのさ」
 さっきまで、肩書きをいいことに、平然とサボっている鼻持ちならない奴だと思っていたくせに、取り扱っている仕事の責任の重さを金額で勝手に推測って、もっと労われてもいいと思う自身の変わり身の速さにいささか呆れるが、その責任の重圧を思うと、それくらいの褒美があってもいいと伝えたくなったのだ。
「なるほどね」
 瞳はフラペチーノから視線を俺を移して、ニヤッとする。
 一度しまったノートを取り出して、サラサラと書き込んだ、夫婦円満の秘訣の文字に、勘弁してくれと声に出して抗議した。
 これを妻に話して聞かせるにあたって、まずはケーキでも買わねばならぬと、小遣い制の薄い財布の中身を思ってため息をつく。
 ふと外を見ると、眼下の桜並木から風で舞い上がった花びらが、花吹雪となって2階の窓にも届いていた。
 妻を形容したその情景は、美しい。
 俺も瞳のそれに倣って、心のノートに書き留めることとする。

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