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Because… のうしろ、聞いてください


どうして空は青いの?
どうやって私は生まれてきたの?
どうしてお菓子やジュースを飲んじゃいけないの?
なんのために学校に通うの?


どうして、なんで、

好奇心から無邪気に質問していたあの頃にはもう戻れない


戻りたくないから、ではなく、戻ることが許されないから。


どうして夜は眠たくなるんだろう
どうしてお腹が空くんだろう
なんで自分と人の声は違うんだろう

どうして、と聞かれたら答えがないとむずむずする。


どうして? それはね、
なんで? つまりね、


いつの間に私たちはそれを鬱陶しく思い、邪魔だとみなすようになったのだろう


権力者から教えられるものが全て正しい、そこに疑問を持ってはいけない
個人の意見なんていらない、プログラミングされた通り、ただ機械的に判断し、行動すればいい



ほんとにそれでいいの?



留学先の大学でのディスカッションを思い出す

「小学校の教室、先生主体であるべき?生徒主体のグループワークメインであるべき?」


ここで一番重要なのはA か B の意志表示ではない。もちろんどちらに賛成かをはっきりするのは前提だが、それ以上に時間をかけるのは「理由」の部分。


先生主体だと、生徒の学びの方向をある程度コントロールできる
生徒主体だと、興味関心や好奇心が育ち自発的に学ぶことができる


教授は学生の意見を「間違っている」なんて言わない。


面白い観点だね
僕は気が付かなかったよ
ではこういうネガティブなポイントに対してはどう思う?


教授はどんどん議論を加速する質問をしてくれる。
教授が言った意見だから正しい、従うべき、なんてことはない。
学生は教授の発言に対して積極的に質問するし、なんなら反論だって述べる。
教授もばっちこいだ。
学生が発言すればするほど楽しそう。



留学して感じたのは常に発言は「I think」と「because」がセットだということ。
教室や会議などフォーマルな場だけではなく、日常会話でも。


今日の放課後、外で勉強しない?久しぶりに晴れるみたい!
パーティー用の服、どっちがいいかな? - そっちのジーンズにしなよ、あなた足のラインきれいだから。


自然と「自分の意見」を入れて会話すること、そしてそれが当たり前の世界。


Because… のうしろ、どうか鬱陶しがらないで


理由とか、意見とか、出しゃばっているなんて怒られるのは理不尽すぎる。
Because の後にこそ、その人らしさが出るのだから。

たとえそれが自分と相反するものだとしても、真っ向から攻撃するとそれは人格そのものを否定してしまう可能性がある。



シチューとごはんを一緒に食べる? そんなのおかしい、どうかしてるよ
ストレス発散のためにジムに行く? 余計疲れるだけじゃないか何考えてるんだ


「意見」と「人格」をごっちゃにしてしまう人が多いなと日本で感じるのは、Because … に慣れてないからなのか



新しい視点や考えを吸収できる最高のチャンスを、無駄にしないで

Because… のうしろ、聞いてください、思いやりをもって


頂いたお礼は知識と経験を得て世界を知るために使わせていただきます。