空の境界 未来福音で語られる未来視と生きづらさについて、その他雑感

※本文書は2018/6/17にTwitter @nem_shp のアカウントでふせったーに投稿したものを改題、一部修正して再投稿したものです。
2018年当時、5月には池袋で劇場版空の境界公開10周年の特別上映が開催、6月にはabemaTVで劇場版空の境界が初放送されましたので、それを受けて書いた文章です。


街の話、としての断章

空の境界はきのこ先生が書くところの「街の話」に分類されるものなのですが、未来福音は番外でありながらその側面が一番濃い話です。
橙子さんの居た伽藍の堂にはミツルさんが住み、主人公であった式は母親になる。人そのものも、その在り方も変わりながらそれでも回り続ける街が、何を包摂しているのかという。

街の表側はきらびやかでも、観布子の母やクラミツのように表通りには生きられないような人々もいる。どんな在り方であれ、この街の中でどのような役割を果たして生きてゆくのか、その問いかけがこの話にはあります。
クラミツが「職業的」爆弾魔と自称しているのも象徴的です。

自己の能力と生き方

ミツルさんと瀬尾と観布子の母、未来視という能力を持つ三人は、生まれ持った能力に人生を振り回されてしまう生きづらい人種です。

未来福音では、そんな人々が、
  世界をどう捉えて
  自分を世界の中にどう規定して
  どう人間性を求めて生きてゆくのか
という自問自答の上で生き方を決める/生きた結果を描いております。

都市生活とは細分化された個々の責任と役割によって成り立つ(これは街の話の側面にも繋がる)ため、結局のところ人は他人と関わらずに生きて行けるものではありません。

生きづらさを抱えた三人は、何をすることでその切なつながりを求めたのか。

観布子の母は最期まで自分の能力に殉じて生きることに決めた。
瀬尾は未来予測の能力に自分なりの折り合いをつけて生きることにした。
ミツルさんは未来測定の能力を失くし機械としての生を殺され、完全に生き直すことになった。

三者三様、それぞれの道を選んでいます。

この中でも、劇中で一番の変化を迫られたのがミツルさんです。
ミツルさんは生き直すことによって未来への奉仕から解放され、彼が言うには「失敗だらけの人生」を歩むことになった。

それをさせたのは、クラミツを殺した式さんな訳ですが。
「計算式と一緒だよ」のクラミツの言に対し「おまえ、それ楽しい?」と含みがある言い方をする式さん、今は壊れて戻らないけれども、かつての自分はそうあることを求められていたが故の言葉です。
(劇場版では削れてますが、原作では「オレも人のことはいえないけど」という言葉が先の返答の前に入ります)
空の境界本編が両儀式の喪失と再生の物語であり、その物語の断章で、その本人が別の誰かの喪失と再生の切欠を与えているという構造が、とても美しいものに思えます。

そして、未来視を抱えたまま生きる二人について。

自分の役割に殉じて生きた観布子の母は、その能力がもたらす苦しみを一身に背負い、投げ出すことをせずに生き続けています。
(劇場版BDに収録された一問一答でも、「きつい人生を送っている」といったコメントが記載されています)
救えないもの、救い切れないもの、それに対する諦念もありつつ、それでも他人の未来を視ることを止めないまま。

それ故に、未那の存在には相当に救われたのではないかと思います。
一番つらい方向性で生きようと時を経て救いを見ることもある、そんな奇跡があるというだけで彼女自身が自分の生を肯定できるのではないでしょうか。
観布子の母が見た織くんの未来というものは、彼女にとって一番つらい類のものであったでしょうから、余計に。

そして、瀬尾の未来は本当の意味で未知数なんですよね。彼女の進む方角はまだ決まっていない。未来が視えようと方角は定めずに生きられる、未来は自分の手で変えられるのだと、コクトーさんが指南したために。
先に書いた一問一答には、瀬尾のこれからについても言及がありますが、「たまたま作った同人ゲームがヒットして」のあたり、瀬尾にはその未来が見えていてそうなったのか、先に見たものと異なっているのか、とても気になります。

ここまで未来視という能力にスポットを当てて書きましたが。
未来のことなんて考えれば誰でもわかる、の言葉ではないですが、現代を生きる我々は言葉で表現できるような能力がなくても何かしらの生きづらさを抱えています。
物語中でも、能力を失ったミツルさんは結局生きづらいままに、生の苦しみと向き合っていますから。
それはどうしようもなく我々の現身であり、だからこそ未来福音の物語が胸に刺さる訳です。

冬と夏、夜と昼の話

式と幹也、空の境界の主人公ふたりの話であるところの殺人考察(前・後)については冬のお話で、ふたりの誕生日も寒い季節です。また夜の話、雨(雪)の中の話でもあります(2章は夕暮れの話でもあります)

しかし、未来福音は真夏の話なんですね、目のくらむくらいが光が射す。まるで生命力の象徴のような。
また断章でありながら唯一白昼の話で、眩しい晴天がその舞台には広がっています。
それはラストシーン、ある意味では夜の象徴であったような織が、朝日を背に夜の中に消えていったからこそ、そこが舞台として在りえるのだろうなと、そんな妄想をしてしまいます。
織はユメのため、未来のため、彼女たちのために消えることを選んだ。やっぱり冬の夜、雨の中を。

「死は無意味」という言葉は空の境界に度々登場するものでありますが。
アレルヤの歌詞にあります「優しく無意味に消える日まで」。そこはいつか誰もがたどり着く場所なのです。
無意味の肯定。生の肯定。存在の肯定。

生き辛くもなんとか日々を送る我々を、その在り方を肯定する物語。
未来福音の物語は、年月を経てその重みを増していると、そう思います。

note投稿版追記

本記事内で、式の誕生日に言及が(触れるだけでも)あるので、誕生日記念として2024/2/17に投稿します。
誕生日のお祝いが出来るその事実に、毎年奇跡を見るような思いがします。

更に蛇足

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