逆噴射小説大賞2023 負け語り反省文

負けた者に語る言葉はなく、ただ去るのみなのが当然なのだが、反省も兼ねて敗因について書く。

逆噴射小説大賞2023の一次・二次選考の結果が発表された。自分の結果は二作すべてが落選という箸にも棒にも掛からないものだった。

出したのはこの2作だった。
前回は『Q eND A』が最終選考に残り、評価も高かったのと、書籍化の決定や期間前後に『大谷ポケカ』がバズったのもあって、調子に乗っていた。
コンセプトも面白いと思っていたし、自分には文章力がある(と思い込んでいたので)今回も最終選考には並べるものと思っていたが、結果はご覧の通り、文字通りに惨めに敗北すると書いて惨敗だ。

こんなものまで書いていたし、パルプ飲み会の主催までしてちょっと強いやつの気分でいた。本当に恥ずかしい。(次回以降はちゃんと強い人が代わりに音頭をとってくれるとうれしい。ただの敗者が主催する会でも、来てくれるというならありがたいが……)

以下、各作品の敗因について分析する。

貪婪王の婚礼

主人公がいいやつなのか悪いやつなのかの開示が遅く、読者がどういう気持ちで読めばいいのかわからない

これはお望月親方から指摘のあった話で、確かにそうだと思った。あとから描写で「いいやつだけど悪いことをしている」と何度か表現しているので問題ないとおもっていたが、冒頭の冒頭から書かないと、読者がどういうスタンスでこのキャラを扱っていいのかがわからない。
ここに気づけなかったのは、自分だけで文章を構築すればうまくいくと思っていて、他人に見せて意見を聞くことを怠ったからだと思う。

冒頭のカメラワークがぎこちない

かっこよくハイファンタジーの世界観を演出しながら、映画のような導入をしたかったのだが、失敗したようだ。俺は気に入っているんだが。

結局ジャンルが書きたいだけで書いている

本作は直球にかっこいいハイファンタジーを指向したものだったが、少なからず「俺はこういうのも書ける」という意思表示の部分もあった。それは畢竟ジャンルを書きたいという欲求が審査員に見透かされたのだろう。
かっこいいものを書く、というコンセプトありきだったが、技術をひけらかしたいという気持ちがなかったかといえばウソになる。

葛藤要素がいまいち乗り切れない

入れ込んだ葛藤要素について、「こういう葛藤がござい」と提示するところまではよかったかもしれないが、読者の感情にアクセスして共感させるまでは至っていなかったのではないか。
多くの人が共感可能な葛藤として「娘を嫁に出す」「世界を救うために生贄にさせる」という内容を入れ込んだが、これは結局「あー、そういうのあるよね。どれ、どう判断すっかみせてもらおうじゃないの」ぐらいの他人事感にとどまり、読者の気持ちを動かすに足るものではなかった。
『大谷ポケカ』のほうは、誰もが抱えている劣等感にアクセスできたので感情を動かすことができたが、上記のそれは誰もが抱えているものではない。
もっと根源的な、あるいは親しみやすい葛藤にすべきだったと思う。

展開の圧縮は「自然とそうなる」のが望ましい

800文字の中でどれだけ話を展開させるか、はずいぶん研究した。その技術は本作に存分に込められているが、振り返って過去の大賞作を見ると、強引な圧縮はあまり行われていない。
その事実自体は知っていたが、それは才能と文章力によって「圧縮されていないように見える」と判断し、技術と研究でどうにか同等の効果を実現しようとした。結果、失敗し、描写が不足した感は否めない。
これも他人に見せる行程を怠った結果といえるだろう。作者は圧縮がうまくいったとおもっていても、それは作者の知っている情報で補完ができているからで、はたから見ればガタガタだったのかもしれない。(このあたりは『スペルバウンド』の項でも触れる)

まとめ

結果、文章力のない人間が、文章力があると勘違いしてそれを詰め込んだ結果、単純に文章力が足りずに落ちたとするのが妥当だろう。
好きな物・かっこいいと思う物・エモーションや葛藤という自分に課した課題についてはしっかり詰まったものができたと思っていたが、肝心の内容がお粗末では1次審査落ちも当然だ。もしそのへんがクリアできていたとしても、ジャンルが書きたい・技術を詰め込みたいという欲求が透けてしまえば落とされるのも無理はない。

そうは言っても

それなりに多くの人にキャラクターや世界観が好評ではあったのは、ありがたいことである。ジャンルを書くとそのジャンルが好きな人にリーチできるのは、ジャンルものの良い部分だ。
キャラクターがかっこいいことについては疑いはないので、もし長編を書くのであればもっと表現していきたい。

スペルバウンド

どこに向かうお話なのかわからない(お話の構造が内容と合ってない)

『スペルバウンド』はマイナー競技を通じた少年たちの心の交流、成長を描くお話だが、結局ゲームをやっているだけの冒頭では、このお話がどこに向かっていく内容なのかがわからない。
これは最終決戦を書きつつ、どうしてそうなったのかを時系列転換で戻って提示する話の構造的な欠陥によるもので、時勢転換により物語上のゴールがすでに実現したあとの話を冒頭にもってきてしまっているからだ。つまり、心の交流が終わった後の状態を書いてしまっているので、「ここからどうなる」がない。
一方で、「結果こうなるのはなぜ」というフックもない。似たような構造で描いていた『かつて天才だった俺たちへ』は、「なぜかカードゲームにマジになって殺気立ってる大人」という疑問と、「かつて仲良しだった二人がなぜこうなった」という展開へのフックがあるので、この形式でよかった。しかし、『スペルバウンド』は過去・物語の起こりと現在・物語の終わりがほぼ地続きで、言い方によってはこの800文字で完結しているとさえいえる。もちろん、主人公たち補習クラスがここに至るまでには山あり谷あり、主人公がアメリカに馴染んでいく・受け入れられていく流れもストーリーとしてはあるのだが、「提示されている情報」どうしでは普通に線が結べてしまう。そのあたりのごたごたがあるのなら、もっと明示的に示すべきだった。あるいは、別の物語構造を検討すべきだった。

そもそも深刻でない

ぶっちゃけ、綴り字ゲームで勝った負けたしてどうなるのかというところがある。しかも今回、すでに主人公側は成功しているところを書いてしまっているので、負けそう・負けて大変なことが起こりそうという感触がないので、フックとドラマ性に欠ける。
『Q eND A』はデスゲームだったので、負けたら死ぬという「大変なこと」が起こるため深刻さが担保されていた。『スペルバウンド』は、負けたらどうなる、ということがなく、ただゲームの紹介がされて終わってしまったし、しかも負けなさそうだ。
正直、この話の本筋はゲームの勝敗は本筋ではない。慣れない環境で奮闘する主人公と、同じように言語にハンデを抱えた子供たちとの心のふれあい、その舞台と目標としてのスペリングビーがある、という話が本筋なのだ。もちろん、スペリングビーという知的ゲームを紹介したかったという側面もあったが、だったらより「本筋」のほうに描写の重きをおくべきだったのだ。
『Q eND A』で学んだ、面白いゲームで知的好奇心を刺激するとよいというのは誤学習で、ゲームの結果がどう本筋に影響するかということがないといけない。(よく考えたらこれは逆噴射ワークショップで以前言われていたことで、成長が見られない)

時系列転換がわかりづらい

話のなかで時系列を行ったり戻ったりするのは冗長でわかりづらく、可読性を損なっていた。やるべきではなかった。

フリガナの意味が一貫しない

英語と日本語、そして発音記号という3つの文字を使いながら、それぞれにフリガナや音声を表現していくのは煩雑で、同じフリガナでも意味が一貫しないのもあって、可読性を損なっていた。
また、フリガナによって文字数計算が狂って800文字をオーバーしていた疑惑もあり、極力使わないのがよいだろう。
このイマジナリーの煩雑さは『Q eND A』の時に指摘があったもので、何も成長できていないのがわかる。猛省。

エモーションが共感しづらい

異国の地で言葉がうまく使えず、孤独や疎外感を味わうという体験は一般的ではなく、800文字で扱うテーマとしてはそぐわなかった。一方で友情については多少読者の心を動かすことができたようだ。
もっと根源的で共感しやすい感情の動かし方をしないと、エモーションをやったことにはならない。

まとめ

結果、『Q eND A』がデスゲームというジャンルだったから成立していたということを認識せず、誤った学習に基づいて話を作った結果、フックもなく煩雑な800文字になっていた。
前回から何も成長したいないどころか、ジャンルに勝たせてもらったことを認識せず、自分が面白い小説が書けると思い込んでいたところが傲慢であり、猛省すべき内容である。

そうは言っても

『貪婪王』よりはこちらのほうが評判がよく、『Q eND A』から続く「ゲームもの」の獅子吼れおを期待する読者にとっては期待に応える内容だったと思う。
また、少年同士のエモーションについては表現できていたと言え、コンセプトとしては悪くなかったのではないか。

今後に向けて

今回の2作はどちらも、前回の逆噴射小説大賞でとりあげられた「エモーションを含む」という要素に重点を置いて挑戦したところ、文章力の地力の無さと誤学習による賞レギュレーションとの齟齬、文面の煩雑さによって可読性が損なわれた結果となった。
しかしエモーションはより共感されやすいものでなければ読者にはウケない。特に800文字で表現するには「エモーションをやる」だけでなく「どんなエモーションをやるのか」の選択が重要になってくる。これは今後の課題としたい。
また、キャラクターを書くことの技術不足を痛感させられた。魅力的なキャラクターを登場させ、過不足なく魅力を引き出す構成は難しく、普段からよくわからない文章を書いてキャラクターに向き合ってこなかったツケを払わされたという実感がある。

結局のところ『Q eND A』が最終選考まで行ったのはデスゲームというジャンルにたまたま書きたいものがはまった結果で、書籍化もたまたまデスゲームの中での異色さが目を引いた結果なので、文章力が認められたというわけでは決してない、言ってしまえばフロックであったということを、忸怩たる思いではあるが認識しなければならない。

これは完全な負け惜しみなのだが

しかし、個人的には「もう逆噴射小説大賞で争うフェーズではないのかもしれない」とも思ったりもする。

逆噴射小説大賞はレベルが高くなりすぎた。(自分もその一翼だと思っていたことは反省しなければならない)応募の母数も増え、しかも全員めちゃくちゃ上手い。過去の大賞・最終選考作品たちも、現在の環境で並んでいたら2次選考を突破できるかわからない。
その中でいわゆる「パルプ的なもの」「賞カラーにあったもの」への適正が低い者が勝ちあがることは難しくなっている。仮に自分に文章力があったとして、それだけで勝ち上がれるかは疑問だ。(というか、それができるなら10万文字書いてデビューすべきだ)
カードゲームでいえば環境の研究が進みプレイヤーが熟練したことで、環境デッキ以外が勝ち残りづらくなってきた、というところだろう。ビートダウン全盛環境でコントロールのオリジナルデッキを握れるのは八十岡翔太ぐらいだ。
もちろんそうでない作品を許容する懐の深さも、環境をひっくり返してくれる作品が現れるのもこの賞の良いところではあるが。

賞カラーへの適性が低い人間にとっては、この賞は何か書くきっかけになれば良いといった程度で、それはもう成し遂げている。
だったら、自分がすべきことは、つべこべ言わずに10万文字書き上げて文章力や基礎的な構成の技術を磨くことや、いろいろなジャンルに挑戦して芸の幅を磨くことであって、賞適性のない題材やテーマをこね回してマイナーデッキで環境に挑むようなことではないのかもしれない。
(もちろん、やってたら参加するぐらいはするんだろうけど)

フロック(運勝ち)とはいえ『Q eND A』や『大谷ポケカ』が受けたことには間違いないので、この機会は逃さずに創作市場のなかでの自分の売りを見つけていきたいし、また他の機会も勝ち取れるように芸の幅を広げていきたい。

来年の課題

  • フリガナを使わない

  • 時系列転換をしない

  • 展開を圧縮しない(自然にすべてを含むようにする)

  • 深刻で共感可能な感情を扱う




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