善良な人

何も、全てのものにとっての無害になりたいわけではない。
それにしても、「善良な人」であることは難しい。
より正確に言うならば、「善良な人」であるかのように振舞うことが難しい。
思想の自由が許されているので、べつに骨の髄まで善良である必要はないし、善良とは何かと考えるならば、私にとって都合の良い解を適とみなせば良いのだけれど。
しかし、他者から観測されたうえでの「善良な人」であろうとするならば、恐らく最適解はあれど正解はないのだろう。
全てのものに無害であるためには、"存在しないこと"が正解なのかもしれない。
堂々巡り。
私は、無害になりたいわけではないのだ。
「善良な人」の振舞いがしたいだけだ。
なぜなら、都合が良いから。
それがどれほど心底つまらないことかはわかっているけれど、都合が良いから、便利だから、余計なことに邪魔をされたくないから、善良だと認識されていたいのだ。
それなのに、私は「善良な人」になれない。
難しい。


例えば、職場で体調を崩している人を見かけた時。

一見した様子から見て取れる症状から、風邪を引いていることが推察される。
善良であるならば、風邪を引いた人に声をかけるべきだ。
そう思った私は、「風邪ですか?」と尋ねた。
相手は肯定した。
他の職員や外部から来る人も同じ症状の風邪を引いている人がいることや、季節や天候、その他の環境を踏まえても、今、彼が風邪を引いていることは不思議なことじゃない。
そうだろうな、と考えていると、私は言葉を返すタイミングを失っていた。
その場では、特に他に言うべきこともなかったので、会話は終了した。
終了してしまった。
数刻経った今になって思い返すと、体調を気遣う言葉をかけるのが、「善良な人」としての正しい返答だったと思う。
最初に声をかける前のタイミングで、そこまでのシミュレートをすればよかったのだけど、そこまで考えていなかった。
なぜ私は、咄嗟に彼の体調を気遣えなかったのか。
簡単だ。私は彼を心配して声をかけたわけではなかったから。

ここまで考えて、私は、あの時の私は「善良な人」になりきれていなかった、と反省した。

他者から何か恩恵を受けた時。
感謝の言葉を述べる時の声のトーンは上げる。
特に相手が女性である際は尚更。
女性同士の人間関係は、一度崩すと厄介だからだ。
相手が年上である際は、「やったー」など、敢えて敬語ではない表現を挟むと、親しみやすい年下感が出せる、のだと思う。
私が若い男性であったなら、もっと効果が見込めただろうが、それはどうにもならないことだし、実体験としての検証はできないので、さておき。
先述のものは観察によって得た考察だから、もしかしたら間違っているかもしれない。
でも、使ってみた感触は悪くないように思われた。
先述の例は一部だが、それでもまだ典型的な会話パターンを網羅できてはいないし、やはり咄嗟に上手く返すことが難しい。

私が他者に興味があれば、もっと色々と得られそうなものだけど、そうしたらそもそもこんなことにはなっていないはずだし、仕方がない。
心からの心配や感謝ができないなんて、人としてどうなんだ、とか、その手の言及はどうでもいい。
私は自分の利のために「善良な人」として振舞いたいわけだが、でもだからと言って他者に害を与えたいのではない。
それは、大抵の場合、私にも相手にも利がない。
しかし、「善良な人」として振舞うことを、疲労と退屈を抱えながらも遵守するほどの気概も、実はない。
だからボロが出る。
中途半端。悪循環。


ああ、なんだかもう、本当にどうでもいい気がしてきた。
私は私のしたいことだけをしていたい。
中途半端に社会性を獲得しつつあるから、面倒臭いんだ。
どうでもいい。
利を捨てて快に逃げていたい。

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