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「利己」に実る、「利他」の果実。

茹(う)だるような暑さのせいだろうか。街中で、喧嘩を目にする機会が多くなった。

上限いっぱいの不快指数を身にまとい、なおメーターを振りきらんばかりに争う姿。争うといっても、せいぜい相手の胸ぐらを掴んだり、罵声を浴びせたり、睨み付けたり。「怒れる私」で相手を威圧し、発散している。せいぜいその程度のことだ。

幸せな時代、幸せな国に生まれたなと思う。省エネルギー化(※)の猛進の結果、社会全体でエネルギーをもて余すようになった。剰りあるエネルギーを、一体どのように消費したものか。エネルギーの消費"それ自体"が意味を持つ日が来るとは、遠い昔の諸先輩方も、つゆ思わなかっただろう。

生きるためにエネルギーの大半が費やされていた時代。「四肢」の役割は、カロリーを得たり、所属する集団を守ったりするための手段であった。生とは、死の概念から遠ざかるための、不断の営みだった。

今の時代、死ぬことは"容易なこと"ではない。我々はいかに困窮しようと、幾重にも張り巡らされた、独自の「システム」の中で、死から遠ざけられている。人類の叡知は、20世紀後半に、必要な最低限度の「生」を確立してしまった。そんな感がある。

「生」それ自体を目的にできないのだから、"生きる理由"を他に求めたくもなる。そんな気持ちも理解できる。遠い過去の時点で、人類が「社会的動物」等と称するようになったことも、ある種、必然だと言えるだろう。

はたして、意識が外に向いたからなのだろうか。我々は、「あなたのために」というフレーズを、しばしば口ずさむ。「あなたのために」時間を使い、「あなたのために」物品を手配し、「あなたのためにあなたとの関係を解消する」ことさえある。私的ではない他者に向けた行為は、「利他的」であるとされる。

そう、私は「利他」という言葉を正面掲げる行為が嫌いだ。どれ程、華美に着飾っても、「利他」という言葉の裏側に隠された厭らしさを消すことはできない。「私がしたかったこと」を「さも、『相手がしたかった』かのように言葉巧みにすり替えて、恩を売らんとする」行為。恩の押し売りこそ、「利他」という言葉を正面掲げる行為の本質に他ならない。

こういうことを述べると、「ああ、nemutaiさんはさぞ冷たい人間なのだろう」とお感じになる方があるかもしれない。"文字"という限られた伝達手段で想いを適切に伝えることは、殊の外難しい。誤解しないでいただきたいのは、私は「ボランティア」を否定するつもりはないし、「結果として人のためになった行動」が確かに存在することを承知している。

私が言わんとするのは、その動機が100%「私」にあったはずだ、ということだ。「あなたのために」しているのではなく、「私がそうしてあげたいと願うから」そうするのだ。あらゆる行為は「利己的」でしかあり得ない。それが「利他的な結果」になったとしても、それは結果的にそうなっただけのことだ。「私がしたいから」という動機から目をそらさなければ、「あなたのために」が、「私のために」なっていないという滑稽な矛盾に苦しむことは無くなる。

自分のために土を耕す。自分のために種を撒き、水をやり、草をむしる。そうして創り上げた「自分のための果実」。それが、誰かを笑顔にすれば、もちろん最高にハッピーなことだ。たとえ、誰かを笑顔にできはしなくとも、それはそれで良いではないか。私自身の糧となり、私自身が満足できれば、不幸になるものは誰もいない。我が子の時代が、幸せな今の時代よりちょっとだけ、幸せな国であるば良いなと思う。





※「単位カロリー当たり、どの程度のエネルギーを身体がコントロールできるようになったか」という意味での省エネルギー化。

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