深刻になるな、真剣になれ。


入社2年目のこと。何の前触れも無く、半年にわたるとても大きなトラブルの対応を余儀なくされた。

一体どの程度の、については詳述はできない。仮にできたとしても、「大変」の客観的数値など無いのだから拘る意味はやはりない。少なくとも当時の私、いや、それから数年を経た今の私にとってさえ、それは随分と大変な経験だった。

生産から納品まで、サプライチェーン上のほとんど全要素の調整を、少なくとも1ヶ月間毎土日出社して行わなければならなかったし、日々の実務と並行して、法務対応の勘定、証憑類の整理も進めなければならなかった。

今なら上司や情報を上手くマネージして、何分の一かの時間で効率的に対応できる。丸七年間物流業務に従事して、顔も利くようになった。しかし、当時の私にそれを求めるのは酷だ。居並ぶ年長者に毎日頭を下げ、鳴り止まない電話の隙間で、できることを少しずつ進めていくしかなかった。


1ヶ月が経過した頃には、身体的にも精神的にも限界を迎えつつあった。大小様々な打ち合わせを何度しただろうか。何回資料を更新し、何度お願いし、何度頭を下げただろう。焦りや苛立ちをこらえ、それぞれの立場や意見と向き合い続ける中で、関係者も消耗しきっていた。


「この充填計画は無理ですよ。第一、こんな生産ロード、ここ数年実績が無い!プラントが壊れるかもしれませんよ!」


限られた生産能力、様々な物流上のボトルネック、受注と生産のバランスから導かれた充填計画は、確かに非常識な数量だ。そのような反応があるだろうと分かっていた。同時に、物理的に達成不可能な数字でもないはずだと、少なくとも約20年前に計上されていたその実績を「検証」してみなければならない、と考えていた。

それは同時に、私が汗をかき、責任をとれる類いのものではない。無理の負荷が現場にかかることや、誰かの首が飛びかねない決断になり得るものだとも分かっていた。

それを、「まぁ、無理だよなぁ。」等と、諦めたくなかったのは、愚痴も言わず顧客に頭を下げ続ける先輩の顔と、労いの言葉が過ったことと無関係ではない。

冷房が利いているはずの室内は、梅雨明けの熱気フラストレーションで満ちていた。


「限界だ。」

そう感じる前に、泣いていた。
大の大人が、更に二回りも大きな大人達の前で、涙をぬぐっていた。

提案が認められなかったことに対して向けたものではない。少しずつ水位を増した川の堤が何かの拍子に一気に決壊してしまうように、インフレーションし続けた感情の堰が切られ、外にダラダラと溢れてしまった。

誰も次の言葉を紡げず、沈黙が続いた。


「真剣になれ。でも深刻になるな。」

その時、1人のスタッフが声をかけてくれた。それは私に向けられた励ましのようであり、同時に自分達に向けられた覚悟のようなものだったのかもしれない。とても穏やかなトーンで、とても力強かった。ここまでやっている彼が「やるしかない。」と言っているのだから、もうそうなのだろうと。やるしかないのだろうと。ならば、できることを全部やろうと。そう言ってもらえた気がした。


「プラント側の生産数量の検証と勤務の予定を変えられるか、今からもう一度調整してみます。包装の方も、すみませんが何とか調整してもらえませんか。」

「分かりました。もう一度断られていますが…何とかもう一度調整してみましょう。」

「ありがとうございます。営業には、数字を落とせないか、納品日や場所をこちらの指定通りに分散できないか、もう一度確認してもらいます。少しの余裕も見ない最低限の数字をもう一度出し直してもいます。」

生産側の責任者の声で、話の方向性は決まった。前述の通り、短いフレーズの持つ意味や責任は大きい。物事に絶対など無く、どのように判断したかの履歴だけが一人歩きする。涙のスペクトルは徐々に変化しつつあったが、それを流すまいと瞼を閉じた。今はやるべきことがある。


2ヶ月の後、トラブルは一段落した。残務処理こそ残っていたものの、そう大きな負担ではなかった。

ふと、普段買わない缶ビールを飲んでみたくなった。

夜道をブラブラ歩いていると、少しひんやりとして、蛙の鳴き声も疎らだった。

日常に戻ったからか終わった実感が無いからか。はたまた缶ビールだからだろうか。期待に反して久しぶりの酒の味にも、心はさほど動かない。「そんなものかなぁ。」と、ソファーに横たわりドアの方を見遣ると、突然6畳の輪郭が柔らかく曖昧になった気がして、何だか可笑しくなった。ああ、終わったんだ。


今でも時々不思議に思う。私は何故、あの場の中心にいたのか。

色々な変数と力学が作用して、場違いな役割を演じることになった。働き方改革が叫ばれる昨今、あのような無茶苦茶な仕事の仕方はもうできないだろう。それ自体はとても良いことである。

けれど、それは「自分の限界やそれを知らせるサイン」を知らないままその日を迎えてしまうリスクを高める危険性を孕むようにも思う。たまに詮の抜けた化け物もいるが、大抵、心の中に溜められる感情の量は一定で、心を病むか否かは、詰まるところ「運」によるのだと思う。そのことが、認識されづらい時代になってきたことを密かに危惧している。


だから、冗談めかして言うことにしている。


「真剣になれ。でも、深刻になるな。」


見た目とは裏腹にいつも優しかったあの人の言葉が、時間と場所を変えてまた誰かを支えることを願って。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)